2016/08/07

被災地からのミニ報告91 - 東松島市宮戸 | 2016年7月13日

東日本大震災で被災した東松島市宮戸地区の月浜海水浴場が17日から、6年ぶりに本格的に営業を再開する。すでに砂浜周辺の清掃も行き届き、護岸工事も間もなく完工の運び。駐車場となる広場には白いラインが引かれ、「海の家」などの開業準備も進んでいる。営業期間は、荒天時を除き、17日から8月21日までの毎日。午前9時から午後3時までオープンとなる。

 月浜は野蒜と比べれば規模は小さいが、遠浅で波が静かな海水浴場として人気があった。大震災で、砂浜には大量の瓦礫が散乱したが、2013,4年に浜の人たちの努力で日曜日限定の営業を始めた。昨年は護岸工事のために開かれなかったが、工事もほぼ終わり、今年から本格的な海水浴場としてよみがえることになった。

 民間の休憩所も準備を整え、「お休み処」にテーブルが用意されたり、被災と復興の様子をミニパネルにして掲示し、土産物も並べていた。海水浴場は地区の住民が運営し、監視員や駐車場の管理も行う。駐車場利用者には600円の協力費を求めるという。ほかに個人の駐車場もある。

 奥松島産業振興協議会は期間中、月浜海水浴場ほかで「交流ふれあい事業」を計画している。その一回目が23日(土)午前10時から、2回目が30日(土)午前10時から。それぞれ募集人員は80人。海水浴場の清掃活動と漁業体験などを行う。参加費は無料。問い合わせは090-5235-9331(小野さん)へ。申し込みのFAXは0225-88-2175へ。
 石巻地方の海水浴場は網地島の白浜が16日から8月21日まで、月浜と同じように本格営業するため、15日に海開きの神事を行う。雄勝の波板では「砂遊び」が同期間できる。北上地区の白浜くとでは30と31日に海開きのイベントを開くことにしている。


きれいな砂浜がよみがえった東松島市宮戸の月浜海水浴場



コンテナに描かれた月浜の夏がもどってくる



2013年日曜日限定で開かれた月浜の海開き。海水浴を待ち望んでいた人でいっぱいだった。



公営の休憩所



公設のトイレも完成した



駐車場には白いラインも引かれ、受け入れ準備万端



民間の「おやすみ処」も受け入れ準備整う



シャワーも使えます



浜では「ホタテの練炭焼き」も



近くの定置網に入ったヒガンフグのから揚げの提供もあるかも



土産品には地場産の「ノリ」も



護岸工事が急ピッチで進む


2016/07/09

被災地からのミニ報告90 - 石巻市 釜、大街道 | 2016年7月9日

大震災直後、仙台方面から石巻市街地に入るすべての道路が冠水し、車両は入れなかった。大街道新橋も周辺が陥没し、通行不能となった。5年たって、新しい橋に架け変えられ、国道が走る大街道は元の姿に戻った。沿線には新たにホテルができるなど、震災の爪痕を消している。

 もう一つの「釡・大街道」の顔である石巻工業港も、日本製紙石巻工場の操業再開に好連鎖して多くが元の姿に戻っている。平成27年度の港湾取り扱い貨物量は351万6000トンで、震災前の87%まで回復した。その主なものは木材チップ85万5千トン、砂利や砂53万4千トン、石炭41万5千トン、トウモロコシ40万1千トン、動植物性飼肥料24万7千トン。

 しかし、大街道(国道398号線)と工業港に挟まれた地域の復興はこれからである。そこは川村孫兵衛や細谷十太夫の功績という輝かしい歴史を持つものの、高度経済成長の波に乗って昭和40年代半ば以降から急激に宅地化された区域。大震災では、海辺に近いところは甚大な被害を受け、広大な原っぱになった。

 その地域で、復興のつち音がわずかに聞こえる地域は「下釜第一」で展開している土地区画整理事業。三ツ股2~4丁目、築山1~4丁目の区域で、都市計画道路の工業港曽波神線(普誓寺のある大きな道路)の東側約12ヘクタール。ビル型の復興公営住宅も数棟建設中で、街路の区画が始まっている。計画区域の南側は高盛土の門脇流留線だが、こちらの工事は見えない。

石巻工業港は昭和36年11月に着工。それから6年後の同43年3月、待望の第一船「越後丸」(6250トン)が木材を満載して入港した。港は当時未完成で、砂浜が残る港に大勢の人が押し寄せ、第一船入港を歓迎した。入社3年目の新米記者として、その光景を先輩記者と一緒に見届けた。赤字再建団体という苦しい財政の中で、当時の市長が言った「苦しいときに基礎がつくられる」がいまだに忘れられない。


大震災直後大街道は冠水し、国道に面した店も津波の被害を受けていた。



かけ替えられた大街道新橋。



歩道橋の上から石巻の市街地望む。



歩道橋の上から東松島方面を望む。



ホテルもオープン。



工業港に近い場所は原っぱに。



こちらも広大な原っぱに。



工業港も順調に回復へ。



復興公営住宅も建ち始める。



新しい街の姿が看板に。


2016/07/07

被災地からのミニ報告89 - 石巻市 釜、大街道 | 2016年7月7日

「なぜ、鍋釜の釡なのか」。地名の由来について、石巻市釡小学校50年史(平成8年発行)で、第15代校長の久野徳美さんは「誇り高き我が釡小」と題し、次のように記していた。

「川村孫兵衛は北上川改修という大事業を竣工した功績によって、政宗より3000石を拝領、大鉤村(現在の東松島市大曲と釡の一部)に居を構え、墳墓の地と定めた。同時に開墾事業や村の浜で製塩も行い巨釜を据えたところを釡と呼ぶようになった」

孫兵衛の菩提寺は「普誓寺」で、近くに一族の墓がある。5日に現地に行ったら、暮碑を格納する建屋もかなり出来上がって今月27日の墓地落成には間に合いそうな感じだった。大震災前に墓碑建屋から500m南に行ったところに、「重吉神社」がり、川開き祭りでは関係者がお参りしていた。

しかし、その神社の建物も鳥居もなかった。浜からの津波で流されたという。残っているのは、大きなイチョウの木と神社の由来を刻んだ石碑のみ。ここにも「定川河口付近に塩田を作り、大釡を据えたことに由来する」と刻まれていたた。

孫兵衛は恩賞で得た野谷地を開墾し一族家臣に分け与えたといわれる。俗にいう「上釡」に残る「新館」「中屋敷」「浦屋敷」「明神」は川村家ゆかりの地名である。
由緒ある「釡」の地名は分かったが、いわゆる「下釜」に古墳があるのを知っているだろうか。学習等供用施設の「釡会館」脇に「釡西古墳」があり、それより東に500mぐらい離れたところに「釡東古墳」がある。旧石巻市内で古墳という名が付く遺跡はここだけで貴重だが、かつて行われた調査では「古墳らしい」ということだけで、確かなことは分からなかったと記憶している。

「釡西古墳」のある場所には江戸時代に、釡の郷士である河東田家の菩提寺「瑞松寺」があったといわれ、発掘調査では庭園と池の一部が出てきた。その脇にお地蔵さんが以前と同様に鎮座。その隣に震災記念碑が地元町内会の手で建立された。周囲の共同墓地内には大震災後の翌年、「釡の観音様」が建ち、周辺一帯は下釡の祈りの場所になっている。
河東田家の屋敷は現在の西三軒屋にあったといわれ、「釡東古墳」はそこにある。


「釡小50年史」



大震災前の「重吉神社」



現在の「重吉神社」跡。



孫兵衛の墓碑建屋建設。



釡西古墳。



釡東古墳。



釡観音。


2016/07/06

被災地からのミニ報告88 - 石巻市門脇、大街道 | 2016年7月6日

石巻市釡小学校の校歌は、「釡・大街道」の歴史と風土を伝えている。特に2番は

「今に讃える重吉の/高き功を偲びつつ/明日の文化と産業を/担う我等の意気を見よ」。

重吉とは、藩政時代に伊達政宗の命により北上川を改修し、石巻を東日本最大の交易港にした川村孫兵衛重吉のこと。

孫兵衛は川村家系図によると1575(天正3)年の生まれ。通説では毛利輝元の家臣だったが、関ケ原の戦い(1600年)に敗れた毛利氏は領地が4分の1に減り、浪人となって近江国蒲生郡に住んでいた孫兵衛をその土地を領地にしていた政宗が見い出し、家臣にしたという。

しかし、「石巻まるごと歴史探訪」(石垣宏著、2000年発行)では「県北で見つかった資料には金山奉行川村孫兵衛重吉とあり、年代は慶長2(1597)年であり、政宗に仕えたのは文禄年間の終わりごろ(1595)かとも考えられる」としている。としたら、関ケ原の戦いの前に、孫兵衛は東北の地を踏んでいる。

孫兵衛の菩提寺は、中浦2丁目にある「普誓寺」。工業港の大手ふ頭から北へ一直線に延びる「都市計画道路工業港曽波神線」(幅員29メートル)の道路脇に建つ。東日本大震災では、工業港大手ふ頭を越えた巨大津波がこの道路を水路のようにして北へと遡上し、北上運河に架かる「中浦橋」へと達した。

この津波で普誓寺は大きな被害を受けた。寺に近い新館にある孫兵衛夫妻の墓も甚大な被害を受け、建屋は流された。現在、墓の区域を整地するなど、修復に懸命。特に、今年は孫兵衛が北上川改修の第一歩となる迫川と江合川を合流させる工事に踏み切った1616年から400年の節目。本流を真野川に合流させるために袋谷地(現在の水明町)でS字型に掘削して石巻湾に流した1626年から数えて、390年。川開き祭り前に墓の落成開場を目指している。

普誓寺は孫兵衛の菩提寺。石垣さんの「まるごと歴史探訪」によると「仙台藩2代藩主忠宗が牡鹿半島にシカ狩りの際、孫兵衛宅に寄ったのだが、孫兵衛はこれに感謝して自宅を寺院に改造してその思いに報いようとした。しかし、完成を前にした1648年に74歳で亡くなった」という。

現在の住居表示では「中浦2丁目」だが、そこは「大鉤山」。のちに「釡大曲」「上釡」などと呼ばれた。そこは孫兵衛さんゆかりの地。普誓寺は「大鉤山龍観院普誓寺」が正式名。本堂にある位牌には「普誓寺普徹聖公居士」と「龍観院心源妙徹大姉」(妻)と刻まれ、並んでいた。

そして釡小学校は江戸時代の末期に普誓寺で寺子屋教育が始まり、明治20年に石巻小の分校、同25年に門脇小の分校という歴史を刻んで、いまにつながっている。


川村孫兵衛の菩提寺の普誓寺。



大震災では「津波の通路」脇となって大きな被害を受けたが、襲来時とその直後、一夜明けて。





孫兵衛夫妻の位牌。



新しく整地された場所に孫兵の墓が建つ。



2016/07/04

被災地からのミニ報告87 - 石巻市門脇、大街道 | 2016年7月4日

石巻市内で1,000人近い犠牲者を出した石巻湾背後地の門脇、釡、大街道地区には大津波を食い止める備えがなかった。南浜町と門脇町は日和山で津波は止まったが、かつての「釡の入り江」にできた石巻工業港背後地は、いくつもの工場の壁を突き破った大津波が背後の住宅地を呑み込み、北上運河にまで達して止まった。

ここでの大震災死者は「門脇字」で143人、「大街道」で155人、「築山」110人、「三ツ股」105人、「中屋敷」44人、「新館」58人、「中浦」12人で合計628人。それに、「南浜町」の218人、「門脇町」の134人を加えると、979人にも及ぶ。

「釡・大街道」は明治の初めに、細谷十太夫が職を失った士族の授産事業として開拓されたが、元々は広大な湿地帯にありながら、「石巻街道」の一部だった。南側には「大曲街道」があった。また、「金華山道」は大街道で合流して、住吉の袖の渡しから北上川を渡り、湊、牡鹿半島へ抜ける形で整備され、いわば大街道は交通の要衝であったことでは、開拓前と後でも違いがなかった。

藩政時代の石巻には、8つの街道があった。その一つが「石巻街道」で、仙台街道も称され、石巻と仙台を結ぶ幹線道路で、石巻の大街道から、矢本、小野、高城、利府、原町を経由し仙台へと通じていた。ほかに「一関道」(蛇田新橋から鹿又、天王橋、飯野川へ抜ける道路)「雄勝街道」(稲井真野のルート以外に釜谷ルートも)「大曲街道」(釡地区から定川を渡り大曲へ)「石巻別街道」(現在の国道108号線)「松島街道」(石巻街道を通り高城より松島へ)「石巻北街道」(片上川を船で渡り、湊、渡波を経て、女川へ)「金華山街道」があった。

明治の大掛かりな開拓で、牡鹿原と呼ばれた低湿地帯は平坦で肥沃な地に生まれ変わり、穀物に野菜、果樹の産地になった。市立釡小学校は戦前、門脇小学校の分校だったが、昭和21年に現在地から国道398号線を挟んだ築山地区に開校した。このとき制定の校章は現在も変わらない。「梨を図案化」したもので、もう地域には何本も残っていない「梨」を大切に守り、誇りにしてきた。

今年3月には「梨のふるさと釡」の石碑が校内に残る梨の木の下に建てられた。碑文には「江戸時代末期、下野国塩谷郡荒井村(現栃木県矢板市)出身の井上吉兵衛が、下総国東葛飾郡八幡村(現千葉県市川市)から長十郎を移入、移植したことに始まる」と釡梨の歴史に触れ、細谷十太夫の開墾と共に、砂地に適している梨の栽培に手掛けたということが石碑に刻まれていた。

昭和40年代に入って、石巻工業港の建設と共に地区内の都市化が進み、梨園は園芸作物などに転換、徐々に少なくなった。今では釡小を含めてほんの数本が残るのみとなった。「釡梨」の子孫は利府町の梨となって生き続けている。


工業港の建設が始まる前の「釡の入り江」(釡小開校50年史から)。



約20年前の工業港(釡小開校50年史から)



釡小の校章は「梨をデザイン化」。


校庭の隅に梨の木の下に石碑「なしのふるさと釡」が建つ。



その梨の木には小さな梨のみが実った。



大街道は交通の要衝(明治10年代作成で、ほぼ江戸時代の姿を伝えている。「石巻の歴史」第2巻下の1より)。



大街道の五差路・七十七銀行前にある「金華山道」の道しるべ。


2016/06/30

被災地からのミニ報告86 - 石巻市門脇、大街道 | 2016年6月30日

一般的に「門脇」は、どの範囲を示すのだろうか。焼け野原のようになった門脇町1~5丁目、それと南浜町1~4丁目が含まれることは分かる。それに、「釡・大街道」を加えて「門脇」という。では「釡・大街道」はどの範囲なのか、一般には分かりにくい。いずれにしても、その門脇で1,000人近い人が大震災で犠牲になったことだけは、きちんと心にとどめておきたいものだ。

 「釡・大街道」地区には「釡小学校」(昭和21年3月門脇小から独立開校)と「大街道小学校」(昭和55年、釡小から聞知し開校)の2つの小学校がある。ただ、学区は入り交じっており、両小学校学区をもって「釡・大街道」のすべてを網羅しているとは言い難い。

全体の面積は分からないが、東は通称「パルプ角」の五差路から西は東松島市の境となる定川河口まで。北は北上運河を越えて「字蛇田」までで、南は工業港。青葉神社や青葉中のある地域も、「釡・大街道」の一部といってもいい。「仙台藩士牡鹿原開墾記念碑」が青葉神社に建っているのも、同地域であることを物語っている。
 
 広大なその区域はかつて荒れた地だった。大街道小の校歌2番には「牡鹿原(おしかがはら)の昔より/町を拓いた人たちを/思えば勇気がわいてくる/(後略)」

とあるように、多くの人々が開墾に従事し、人が住めるまちにした。それが士族授産事業として1880(明治13)年から始まった大街道開拓である。

 翌年から本格的な開墾事業に入った授産事業の発案者で現場監督は、戊辰戦争で目覚ましい活躍を発揮した細谷十太夫。彼は戊辰戦争では衝撃隊を組織し官軍と戦ったが、いつも黒装束に身を包んでいたことから「鴉(からす)組」とも呼ばれていた。隊旗は「3本足のカラス」で、毛利コレクションに残っている。

 青葉神社境内にある記念碑は、大正9年に建った。文頭には次のような文面が刻まれていた。「仙台の東12里(役8キロ)のところに大きな道のような土地がある。広々とした平地で、まるで砥石のようだ。松の老木が鬱蒼と生い茂り、石巻まで松林が続いている。土地の人々は大街道と呼んでいる。地勢は平坦で肥沃で、穀物、野菜、桑などの生育が非常にいい。特に桃や梨の栽培が最も盛んである。かつて、牡鹿原とか牡鹿沼などと呼ばれ、低湿地帯であったことは誰が知ろう」と。

 開墾は明治30年ごろまで続き、約330haに仙台藩士43人が入植し、「粗末な小屋で雨露をしのぎ、生い茂る蒲を刈り、土砂を運んで溝渠を掘り、あるいは堤防を築き、低地を埋めて高低差を無くして田圃にするなど筆舌に尽くし難い困難もあった」と、碑文に記されている。

 このため脱落者も多く、開墾しては荒れ地に逆戻りという事態にも陥った。そんなとき、豪商、戸塚貞輔という人物が多額を寄付してバックアップした。記念碑がある青葉神社は、開拓の最中に祠を建てて藩祖・貞山公(政宗)の霊を祀り、毎年祭礼を開いて「開墾成就」を祈念したという。

碑文の最後には

「昔日の湿地/今は田圃となる/桃やまた梨/この地に最も適す/業を経営して/百余戸となる/誰この地を開拓するや/それは父であり先祖である/子よ孫よ/父祖の辛苦を忘れるなかれ/父祖の暮らしを思い/克苦努力すべし」

と刻まれていた。

細谷は大街道開拓後に北海道へ渡り、開拓の指導に従事した後、再び大街道にやってきて、1907(明治40)年に死去。「烏仙居士」の名で「弓矢とるむかしの身にはひきかへて 牡鹿の原を引き去りにける」と辞世の句を詠んでいる。


山の手から仙台方面へ。十字路の標識だが、実際は五差路の「パルプ角」。



「パルプ角」を直進すると国道398号線の大街道。



大街道小の校歌には「牡鹿原(おしかがはら)」という昔の地名が出てくる。



開墾事業の成就も祈願し建てられた青葉神社。



開墾事業が終わって20年余が過ぎた大正9年に、記念碑が建った(青葉神社内)。






開墾を発案指揮した細谷十太夫。

2016/06/29

2016年6月29日 - 東松島市

東松島市郷土史友の会(多田龍吉会長)の総会兼講演会が26日、同市小野市民センターで行われた。昨年の講演会では私が講師に招かれ、「郷土の偉人 大槻俊斎の偉業」というタイトルで話したこともあり、会のメンバーとのつながりを深めていくためにも、講演を覗きに行った。

 今年の講演会のテーマは「野蒜築港の時代~地域住民の物語」で、仙台市在住の地域社会史研究者(民俗学)の西脇千瀬さん。大震災後の2012年「幻の野蒜築港 明治初頭東北開発の夢」(藤原書店)を出し、13年から「奥松島プロジェクト」の代表として活動。旧鳴瀬町域の地域誌「奥松島物語」を創刊し、これまでに3号まで出している。

 西脇さんの講演は、明治政府の築港という大事業をどう見ていたか。「官」ではなく「民」。つまり世論。あるいは世相。どんな暮らしをしていたころの大事業だったのかを、当時の日刊紙を丹念に読み、関連記事を拾い上げ検証している。その一部を紹介すると次のような内容である。

 明治になって職を失った士族の中には身内の野辺送りを借金して、やっと行えたという時代に野蒜築港のニュースが飛び込んできた。仙台日日新聞は明治13年11月10日、「野蒜の築港は波止場を築造し、東は北上川へ西は松島湾へと運河を通し、更に阿武隈川に連絡する規模であり、その費用は100万円という巨大なものである。工事が成功した暁には日ごとに勢いは盛んになり、野蒜が東北五州の商業の中心地になり、東北五州の古くさい状態が一掃されることが期待される」と持ち上げていた。

 運河ができての功罪も報じられていた。蛇田村高屋敷では「溝渠の悪水が田を浸すことがなくなり、収穫が伸びた」とある半面、東名浜では「水不足で植え付けが不能に」と影響が出ていた。

 明治15年の完成式典はてんやわんやだったらしい。野蒜市街地の戸数は50数戸。そこに来賓など関係者が200人。宿舎の手配などは大変だった。それに「参観人」が多数。「村の消防組と野宿した」とある。餅まきがあったが、「そこに見物人が群集する様子は、さながら蒼蠅が臭気を察して群集するかのようである」と報じていた。

 東松島市郷土史友の会は、会員の多くが大震災の被災者でありながら、活動を継続している。昨年は「大槻俊斎」(赤井生まれ、1804~1862)のほかに、元石巻市の阿部和夫教育長を講師に招き「郷土の偉人・富田鐡之助」(小野生まれ、1835~1916)の講演会を開いている。さらに「一関市と東松島市の歴史的繋がりをたどる」というタイトルで史跡巡りも行っている。

大槻俊斎は幕末の江戸の蘭方医。神田・お玉が池に種痘所を作り、初代頭取。天然痘の予防と治癒に努めた。そこはやがて西洋医学所から東京大学医学部へと続く。富田鐡之助は外交官から日銀総裁、東京府知事などを歴任した人物である。史跡巡りでは一関博物館で「葛西氏の興亡」を見学したほか、東松島市牛網出身の和算家、熱海又治と一関の関係などを学んできたという。


野蒜築港についての講演会。



築港計画には新市街地や運河も。



郷土史友の会が配った資料。



昨年の講演テーマだった大槻俊斎の銅像と富田鐡之助の写真。