2016/03/31

2016年3月31日 - 雄勝

大川地区から釜谷峠を越えて雄勝入りしたドライバーを迎える看板は「日本一の硯のふるさと」で、書道で使う大きな硯を用いている。
タイトルを象徴する施設が「雄勝硯伝統産業会館」(被災し取り壊し、平成29年度中に再建予定)と、字明神一帯の景観。
そこには「雄勝石ギャラリー」「雄勝石の生産工場」「雄勝石絵の工房」などがあり、屋根はもちろん、壁から敷石までを雄勝石で作った民家や倉庫も建っていた。震災前は知ったかぶりでいろいろな人を案内してきた思い出の地だ。

明神塩釜神社の石段を登り、その中ほどから「ギャラリー周辺」を眺めたら、建物の何一つ残っていなかった。震災直後の報道では「流されずに残ったスレートを東京駅の屋根に」や、関係者がきれいに洗う作業の姿などが紹介されていた。
さらに、石巻市の四倉製瓦工業所の手で東京駅の一番目立つドーム状の屋根を雄勝のスレートで葺いたというニュースも、この場にいると次々に浮かんできた。

石巻市の議員だったころの平成17年9月議会の一般質問で、「雄勝石」を取り上げたことがある。600年という歴史の中で培われてきた雄勝石の数々の製品を、広範に活用すべきというのが趣旨だった。
その中で「東京駅の屋根を雄勝石で」や地産地消を推進するために「産学官による雄勝石活用の新しい住宅モデルの開発を」「雄勝石絵をふるさと学習に」「市美術展に雄勝石アートを」など盛りだくさんの提案をしたことも思い出した。
雄勝石の製品は多種多彩。皿など食器類にコースター、ペンダント、プレート…。販路が広がってほしいものだ。


「硯のふるさと」の看板



明神地区に鎮座の「塩釜神社」



その神社石段中ほどから見た雄勝石アートの中心地域一帯






そこにはかつて、「雄勝石ギャラリー」も



そこで製造のスレートは東京駅のドーム付近の屋根に葺かれた

2016/03/30

2016年3月30日 - 雄勝

旧雄勝町は石巻市の中でも人口減少が一番に著しい。
震災前の2010年10月の国勢調査で3994人だった人口は、昨年10月に1017人に減った。
実に74.54%の減少率。ほぼ4人に1人しか町に残らなかったという勘定である。人口減を証明するように旧市街地である大字の雄勝、伊勢畑などから公共施設や住宅、商店などが津波で壊滅的な被害を受け、ほとんど消えた。

雄勝はホタテを中心とした養殖漁業が盛んで、かつてはカツオ一本釣り船の基地。石巻地方の遠洋漁業漁船員の供給地でもあった。ほかに全国生産の9割を占めたこともある「硯工芸の産地」。合併前に硯をはじめ原料となる雄勝石(玄昌石)での町おこしを考え、「伝統産業会館」を造り、内外に雄勝石の工芸品をPRしていた。

やや小高い場所から市街地を撮影したら、小学校跡地にはメガソーラーの施設ができていたり、更地になったかつての公共施設集中地域ではかさ上げ、造成の工事が盛んに行われていた。施設の位置関係の記憶をたどると、2007年4月~5月に開かれた「雄勝石と出会った30人のグラスアーチスト展」で、応援団の一員として約一か月間、毎日のように伝産会館に通ったことを思い出した。あれはすごいイベントだった。在京のステンドグラス作家が手弁当、つまり旅費も宿泊費も自前で石巻市を訪れ、雄勝に足を延ばした。約1か月の展示会でミニコンサートも数回開き、石巻市の中心部から車で1時間かかる場所であるにもかかわらず、累計で5000人を超す有料入場者をカウントできた。

約1200年の歴史を刻むという鎮守の森「新山神社」は、震災で壊滅状態に。地域の実情から神社本庁が支援の手を差しのべ、震災の年の⒒月に伊勢神宮の御神木で社殿が造営されたという。被災の神社廃材を活用して神輿も復活させ、人々の寄り合う環境を作った。社殿や神輿だけでなく、神社に奉納の郷土芸能(獅子舞や法印神楽伊達の黒船太鼓など)も早いうちに復活した。なのに、人口の大幅減。切ない思いもしたが、中学生が書いた横断幕の「ふっかつ ぜったい勝つ!!」に期待を持った。

雄勝の中心部は高台に住宅地や約9m盛り土した道路のほか、商業店舗ゾーンや雄勝硯伝統産業会館、体育館、多目的グラウンド、艇庫、総合支所、公民館などの公共施設を平成29年度中に完成をさせたいとしている。

震災前まで総合支所があった場所には「おがつ店こ街」が頑張っている。新鮮な海の幸や硯製品、雄勝石工芸品の生産と販売などを行っている。新鮮な食材を提供する店もなかなかの人気だ。


高台から市街地を望む



震災から1年数か月後の市街地(伝産会館の解体、公民館の2階屋根にはバスが)




住民のよりどころ「新山神社」



中心部の整備計画が書かれた大きな看板と高台住宅地の造成



「おがつ店こ街」



2016/03/29

2016年3月29日 - 雄勝

大川小学校付近から小淵山(標高371m)の峠にある釜谷トンネルを抜けると、
旧雄勝町の領域。震災前は坂を下ると市街地が開けたが、今はその大半が更地。
交差点の正面にある

「おがつ ふっかつ ぜったい勝つ!!」(大須中生徒、職員一同)
「全国の皆様ありがとうございます」(雄勝中生徒一同)

の大きな横断幕が迎えてくれた。

右折して、味噌作(みそさく)へ。震災時に完成間近だった保育所が、津波によって完成式も開所式も行うことなく廃墟となった場所を確認し、かつて友達と訪れたことがある森林公園へ向かった。残念ながら、公園は震災後ずっと閉鎖されたままだった。
一画に仮設住宅が建ち30戸ほどが入居していた。

5戸あるしゃれたコテージは扉を閉ざし、バーベキューハウスも使用できないように入り口を封鎖していた。木製のアスレチックも使用する人がいなく、どこか古びてきた感じ。もうすぐ咲くであろう桜の木々に囲まれた広場には、春というのに落ち葉があちこちに積もっていた。清掃や樹木の手入れなどがほとんど行われないままの状態が続いているように見えた。多くの生き物がいたように記憶しているが、シカ数頭が囲いの中に飼育されている程度だった。

日当りのいい場所で桜が満開に近かった。公園の周囲を流れるせせらぎに耳を澄まし、しばらく散策した。ただし、公園の入り口付近には「関係者以外立ち入り禁止」の標識。この近辺から林道を抜けて石巻市真野へ行けたが、その報告は後日にしたい。
蛇足ながら森林公園がある山の頂は標高520m。「硯上山万石浦県立自然公園」内にある。江戸時代に良質の硯石(雄勝石=玄昌石)が採れ、藩主に献上したことから「硯上山」になったといわれている。まだ登ったことはないが、眺めは半島から金華山、そして西に奥羽山脈も遠望できるという。


中学生の決意が横断幕



味噌作の造成地



森林公園内の仮設住宅



閉ざされたコテージ



アスレチックとバーベキューハウス



シカを飼育



日差しが当たる場所ではサクラが満開


2016/03/28

2016年3月28日 - 長面

石巻市長面地区は大震災で地盤が1メートル沈下し、そこに旧長面海水浴場や新北上川からの津波が押し寄せ、一帯の構築物全てを破壊した。しばらくそこは、以前からずっと海だったように水が引かなかったが、140万トンという大量の水をポンプで排出。整地しながら、行方不明の遺体捜索も定期的に行われるようになった。
震災直後は大川小から長面に通じる道路は応急的にできた砂利道で、車の交差ができなかった。その映像が脳裏に残るだけに、かなり整備されてきた。一部では農地に復活させる除塩工事も進んでいる。道路は広くなったが、長面浦が見える付近からはトラックの往来が多く、一般車両が通るのは「場違い」な感じ。あえて車を進めたが、いつ行き止まりになるか不安だった。

長面浦は山に囲まれたようなところで、栄養度の高い水に恵まれ、カキの養殖が盛ん。正月用の雑煮に欠かせない「焼きハゼ」もここが極上品。尾﨑橋付近から思い出の多い「長面海水浴場」に向け、工事車両専用道路のような道を走った。「時速10キロ制限」の表示があり、すれ違う車両の大半はダンプカーだった。

新北上川に建設中の高さ5-6㍍はありそうな堤防の前に車を止め、出来上がった堤防の上を歩き、河口を目指した。しかし、河口からの風が強く、進むには多少の身の危険を感じて途中でストップ。河口から右手にコンクリートの壁が見えた。工事関係者によると、「砂浜はゼロ」。海水浴場はもう10年も前から砂浜が消えて機能を失っていたことは知っていたが、「地震で復活」という奇跡は起きなかった。松林もなくなり、かつての面影すらも消し去っていた。

大川小から近いところに、龍谷院というお寺がある。震災時に大勢の避難民が寺に立ち寄り裏山に逃げたという。そこに建つ慰霊碑には次のように刻まれていた。


「風光明媚な松原海岸や百年以上の松枝十万本と住宅地、農地全てが濁流に一気に呑み込まれた。長面地区145戸の家屋も瓦礫と化し、壊滅状態になり、住民108人の尊い生命が奪われた。生かされた我々は『地震が起きたら津波の襲来』を教訓に、速やかに高台に避難することが命を守る道であることを、後世に伝えたい」


陸前高田の一本の松があった松原は7万本。碑文に刻まれた長面の松原は10万本。その1本も見当たらなかった。


写真は地盤沈下した長面地区には、まだ水たまりが残る。震災から1年のころは水田地帯が海で、その上に廃墟の家が残り「水上都市」のようにも。豊かな海「長面浦」。新北上川の河口を望む2枚。築堤工事が盛んで、旧長面海水浴場の面影はない。









2016/03/27

2016年3月27日 - 河北(大川)

石巻市大川小の被災校舎が「震災遺構」として保存することになった。
そこでの悲劇は数字的に児童108人中74人が死亡、あるいは行方不明で、教職員も13人中10人が犠牲になった。大川小とは国道398号線の反対側(西側、北上川の上流側)に位置した大川中は、自宅に帰った生徒で3人(1人が行方不明)が犠牲になっただけで、比較的少なかったが、学校所在の針岡地区全体では100人を超す犠牲者が出て被害甚大だった。中学校の校舎は一階部分が浸水したが、その時校舎には教職員も生徒もいなかった。たまたまその日午前中に卒業式が行われ、午後の震災発生で人的被災を免れた。
 
大川中は震災後、飯野川中に間借りしていたが、大川小からの入学者も減り、全校生徒20人足らずとなったことで、2013年3月に閉校、同4月から河北中へ移る。中学校があった場所に「紫匂う北上の/千古揺るがぬ山脈を/はるかに望むこの処」で始まる校歌を刻んだ石碑が建っているが、敷地内は野菜の水耕栽培ハウスと太陽光発電のパネルが広い施設に設けられていた。東松島市の民間会社による「大川発電所」といい、「被災地域の復興のために」と3億3000万円を投資、昨年9月に完成した。パネルは4760枚。出力1200キロワットの発電規模。
 
旧河北町の大川地区(旧大川村、旧河北町大川)とは、明治20年代に5つの村が合併して生まれた。大川小学校の悲劇がクローズアップしているが、地区全体としても行方不明者も含め418人の犠牲者を出している。埼玉大教育学部の調査によれば、大川地区全体の死亡者366人時点の死亡者と、死亡率は次の通り。釜谷(179人、38.4%)針岡(88人、14.6%)長面(79人、15.6%)福地20人。3.1%)尾崎(10人、5.6%)。
 
女川町が死亡率では被災市町村トップの被害を受けたが、その率はひとケタ。大川小所在の釜谷や中学校所在の針岡は数字上からも被害が突出していた。
    

写真は旧大川中跡地に校歌刻む記念碑。校庭内には太陽熱の発電所と大型野菜ハウス。北上大橋たもとから河口方面を望むが、左が北上川で右は富士川。二つの堤防工事が盛ん。右の堤防下側に大川小が建つ。釜谷(大川小に近い場所)での農地災害復旧工事。まだ、地盤沈下してたまった水がはけていないところもあった。






2016/03/26

2016年3月26日 - 北上

国道398号線沿いを走り、新北上川河口をすぎると追波湾。トンネルを抜けるとそこに「十三浜白浜海水浴場」が開けるはずだったが、防潮堤建設などで少し様子が変わっていた。以前は地引網ができる遠浅の海水浴場で、若いころは職場の仲間や家族がお世話になった。今そこで、大掛かりな防潮堤工事が行われているが、「今年こそは孫を連れて海辺で遊びたい」と思いを巡らすスポットにもなりつつある。

白浜周辺には約40戸の集落があったが、志津川湾同様にまともに津波を受ける位置にあり、その全てが流された。「にっこりサンパーク」付近の月浜周辺から続く北上川護岸工事は白浜海岸へと続き、10km近くにも及ぶ。白浜の海岸にも消波ブロックが積み重ねられ、大型重機が一日も早い築堤完成を目指していた。

幸いなことに、砂浜は以前のように残っていた。「復興には海水浴場の再生が欠かせない」と望む地域の住民は昨年8月8、9の2日間、海水浴場としてこの浜を開放した。地元の「海水浴場再開委員会」が200人もの人を集めてクリーン大作戦を展開し、瓦礫などを全て撤去し、浜をきれいにしての「2日間だけの海水浴場開き」を実現したのだ。浜は海水浴を楽しむ人やビーチバレーで交流する若者などでにぎわい、初日500人、2日目700人が訪れたと、関係者のFacebookは伝えている。

30年も前のゴールデンウイークに、当時の職場の仲間が家族、知人を招きバス一台借り切って、白浜海水浴場に遊びに来たことがあった。お目当ては「地引網」。他の団体も含めて3グループが一斉に網を引いたところ、大漁はわがグループだけ。「初夏のスズキは絵にも描いてみよ」と言われるほど姿が美しい。そのスズキが3本も入った。当時1本10000円は下らなかった。漁師さんに「振る舞い」として清酒2本を届けたほか、昼食時に調理して食するには多すぎたため、2本を別のグループに安価でおすそ分けした思い出がある。

白浜から旧相川小跡地へ。そこには「追波の流れゆうゆうと/太平洋に入るところ」で始まる校歌の刻まれた碑が建っていた。旧相川、旧吉浜、旧橋浦の各小学校は平成25年4月に「北上小」として再出発した。

小室・大村、相川、小指、大指の漁港を訪ね、南三陸町との境にある。「神割崎」へ。伝説と景勝の地は今も健在だったが、オートキャンプ場はまだ仮設住宅に使われていた。白浜海水浴場も含め、三陸の海に多くの人が集まる日が訪れるまでには、まだ時間がかかりそうだ。
     

写真は白浜。今年も海水浴場開きがあるらしい。相川小の石碑。景勝地の神割崎。そこに至る各浜では整備が進む(相川漁港)






2016/03/25

2016年3月25日 - 北上

石巻市の旧北上町地区で最大の被災地は旧吉浜小学区。
国道398号線を新北上川河口に向かう途中に「月浜水門」があり、左折するといくつかの集落がある。そこに最近「交流館」がオープン。地域のボランティアの人も含めて数人が説明員に当たっていた。震災時の状況や「暮らしと記憶」が映像やパネルで分かり、新しいまちづくりも示されていた。

そこは河口から3km足らず。「ダムが放水した時のような」という証言もあるぐらいの勢いをもった津波が川を上ってきた。水門を越え濁流が集落を呑み込んだ。確かな数字ではないが、吉浜小学区で200人近くが亡くなり、うち月浜地区では犠牲者が100人をはるかに超えていたという。

高台の「にっこりサンパーク」へ向かう交差点に大きな「丸山地蔵」がある。津波で右に動いた地蔵様の目線の先から、地権者の身内が発見されたということで、やや横向きの姿勢はそのままにしているという。その脇に「手合わせ桜」が一本。「なくなった命への追悼と鎮魂こそ、生き残った者にとって復興の起点」と、震災の翌年春に植樹された。
 
建設当時、町の予算の大半を費やすほどの費用を投じた複合的スポーツ施設ゾーンの「にっこりサンパーク」は高台にあり、施設の一部に仮設住宅180戸が建つ。現在も140戸で入居生活中。4月5日に、施設敷地内2カ所に災害公営住宅が供用開始され、一部が移転する。
 
「落ちそうで落ちない巨石」がある「釣り石神社」も旧吉浜学区にある。石段の前には「茅の輪」があり、主に受験生が新年から3月初めまでその輪をくぐり、しめ縄でつるされているように見える巨石に手を合わせ、大願成就を。願い事を書いた絵馬も奉納されていた。津波で流された社務所などが再建途中で間もなく完成する。
 
旧吉浜小があった場所には「北上町民憲章」「慰霊碑」「校歌」の石碑が建っていた。「山と海とに恵まれて/ここ北上の美しい郷土」で始まる校歌の石碑には、震災前の3階建ての校舎写真も刻まれていた。慰霊碑は「大海大河にも勝れる吉浜っ子」のタイトル。碑文には教師1人と児童7人が犠牲になり、児童の家族23人も命を奪われたと記し、「残念無念の極み」としていた。そして起草者が詠んだ「吾子ら逝く朝明の海は鎮まりて七つの命永遠に忘れじ」を石に刻んでいた。
    

写真は最近オープンの「交流館」。近くの「手合わせ桜」。高台のにっこりサンパーク仮設住宅。釣り石と絵馬。旧吉浜小跡地に建つ石碑








2016/03/24

2016年3月24日 - 北上

昨年の国勢調査で、5年前と比べ約35%も人口が減った石巻市旧北上町を訪ねた。同地区は新北上川(旧追波川)に沿って河口へ通じる町。そこからリアス式海岸の南三陸町と境界を接する神割崎までが区域。大震災前の国勢調査では3718人が住んでいたが、昨年10月の調査では2435人になっていた。震災で関連死や行方不明を含めて268人が犠牲となり、避難、みなし仮設などで各地に移転し、戻ってこない人もいるという結果が数字に出た。

国道398号線から川沿いを走り、橋浦地区へ。河口から5~6km地点でかなり離れているというのに、川をさかのぼった津波が堤防を越え、多くの住居を呑み込んだ。しばらくは水が引かずに湖のようだったという。ここで、橋浦小児童3人ほかが亡くなっている。

車中から茶色に枯れたヨシの群生が見えた。大きな広がりだが、河口に近い部分は護岸工事が真っ盛りで、ヨシは見当たらない。震災前の広がりとは違うように感じた。確か、「延長10キロにも及ぶ」と言われ続けていたように記憶している。以前に見た地元のTさん(震災で奥様を亡くす)が発信したブログ「ヨシ原日記」には、「根は残った」とあったので、5年間で再生したのが今の規模なのかどうか詳しいことは分からない。平成8年に環境庁が「残したい日本の音風景100選」として、ここを選んでいる。
 
ヨシは、冬場に2m以上に背を伸ばしたところで刈り取られる。その作業風景は北上川の冬の風物詩。刈り取られたヨシは、主に北陸地方の雪囲いや土塀の骨材、茅葺屋根の材料になった。海外への輸出も始まり、地元でははがきや名刺への利用も行われていた。春には、「ヨシの野焼き」もあったが、さて今は…。
 
堤防の工事は河口を越えた白浜海岸まで隙間なく行われていた。石巻市の市街地を流れる北上川の護岸工事とは比べようがないぐらいの大規模な復旧工事が進められていた。河川護岸復旧工事とはいえ、テトラポットは欠かせない。巨大な4脚コンクリート製の消波ブロックのことで、現地で製造しているのか、鉄製の型枠が並ぶ現場風景もカメラに収めてきた。
    

写真は「残したい日本の音風景100選」のヨシ原。この静かな川を津波がのぼってきたという。テトラポットの製造も?





2016/03/23

2016年3月23日 - 牧浜

三陸リアス式海岸は海岸線が入り組んだり、岬となって突き出たりしている。言い換えれば凹凸がある。牡鹿半島の石巻湾中ごろの荻浜湾の南側は石巻湾に突き出ている。そこは東浜小学校学区で、牧浜、竹浜、狐崎浜、鹿立、福貴浦などの集落と漁港がある。震災から5年で、新しい展開も含めて「漁業での生業」が再生した。
 
順に牧浜、狐崎浜、福貴浦を訪ねた。どの浜も大震災でカキ養殖施設や刺し網の漁具、倉庫や処理場などが流されたり、大きな損傷を被った。5年間で港の護岸工事が完了し、新しくワカメやコンブの養殖を始めたところもあり、狐崎浜には漁業の第六次産業化に取り組み、「水産六次産業化販売(株)」が生まれた。マスコミが伝えるところによれば、牧浜では「完熟牡蠣」「極寒熟成方法」「made in makinohama」などの言葉が飛び交う新しいカキの販売を始めている。

大震災で牧浜や福貴浦の浜辺に近い集落は、大半の住宅が津波で流された。ただし、狐崎浜は高さ5mの津波が押し寄せたが、住宅の全壊はほんの少し。山間の道路から浜に抜ける集落の家並みは、震災前と変わらなかった。「狐崎屋敷」という地名にふさわしく古い家が狭い道の両側に立ち並び、宿場町のような雰囲気が、震災から5年もたった今も変わっていなかった。

入り江の入り口付近に「ハの字」型の防波堤があり、中にプラス一本の防波堤が真横に設けられている港の構造が効果的だったのか、あるいは集落の高台にある「正一位稲荷神社」の御利益なのかは分からないが、「奇跡」の観を抱かざるを得なかった。
 
東浜地区は県道が今のように整備されていなかった昭和40年代、石巻の市街地から遠かった。そのころ、市図書館は「巡回文庫」という名目で、T司書がライトバンに本をいっぱい積み込んで、浜の集会所に定期的に届け始めた。そのTさんが先日、75歳の生涯を閉じた。同行取材したことを思い出し、やや感傷的にもなっている。


写真は新しいカキ生産にも挑む牧浜漁港。狐崎漁港へ通じる家並みは津波被害を受けていなかった。漁業の六次産業化に取り組む狐崎漁港。狐崎の集落を守った?稲荷神社。牧浜では五十鈴神社の春季例祭の準備に遭遇(3月初め撮影)







2016/03/22

2016年3月22日 - 荻浜

牡鹿半島の石巻湾側中ごろにあるのが荻浜。震災前には県道を挟んで漁港までと山裾までの狭い区域にびっしりと家が立ち並んでいた。70戸に満たない集落だが、全てが津波で流され、2人が死亡している。元あった集落は瓦礫などが撤去され、更地になっていた。漁港はほぼ整備され、船の出入りも活発。養殖関係などはぼぼ震災前に戻ったような雰囲気。ただし、漁港に近い高台に建設予定の災害復興公営住宅は、用地造成中。入居にはなお時間がかかりそう。

県道沿いに、「宮城の牡蠣発祥の地」を伝え、牡蠣養殖を開発、普及させた沖縄県大宜味村出身の宮城新昌氏と宮城一族の功績をたたえる顕彰碑が建っている。さらに津波によって破損した旧石碑と、カキのモニュメントも設置されていた。宮城氏は、食生活ジャーナリストだった岸朝子さん(昨年9月死去)の父。岸さんは「栄養があって美味しいカキを、豆腐のように食べさせたいというのが、父の願いでした」と生前語っていたという。宮城氏が荻浜で開拓したカキは、種ガキとして輸出され、世界の海にいる80%はその子孫。

海岸に近い字葉山という高台に「羽山姫神社」がある。急な石段を200段余昇ると神社があるが、途中で断念した。例大祭では白装束の担ぎ手によってこの石段を神輿が下り、神輿は船で湾内巡行するという。昨年は9月が例祭。浜のにぎわいを見たくなった。

神社下の鳥居付近に石川啄木の歌碑がある。津波での被害はなかったようだ。「港町とろろとなきて輪を描く鳶を圧せる潮曇りかな」の歌は、明治41年4月26日、釧路から「三河丸」に乗船し海路上京の途中に、約5時間荻浜に立ち寄った際のことを、後に回想歌として詠んだという。もう一つ「漂白の人はかぞえぬ風青き越の峠にあひし少女かな」もある。

荻浜沖には戊辰戦争のときに、榎本武揚の艦隊が停泊した。榎本が上陸した折浜からは函館へ向かう戦士たちが乗り込んだという。新田次郎の小説「アラスカ物語」にも主人公安田恭輔が汽船会社の給仕として働いていた地が荻浜で、そこから石巻まで「竹馬で帰った」というシーンは深く印象に残っている。


写真は荻浜港。「宮城の養殖牡蠣」の歴史が分かる石碑など。カキのモニュメント。羽山姫神社の石段。啄木歌碑。