2016/04/28

2016年4月28日 - 東松島市 野蒜

東松島市野蒜の海岸線が見たくて、鳴瀬川と吉田川が合流し仙台湾に注ぐ河口を目指した。大震災前、河口に近い小高い場所にあった「野蒜築港資料室」(新町コミュニティセンター2階)からの眺めが良く、よく晴れた日には頂上が尖がった特徴のある金華山がはっきりと見えた。

 そのとき感じたのは松尾芭蕉がその昔、「おくのほそ道」で記した「踏みたがえて石の巻という湊に出。「こがね花咲」とよみて奉たる金花山、見わたし」の下り。日和山からでは金華山は牡鹿半島の陰で見えない。鳴瀬・吉田の河口から見えるとすれば、石巻の雲雀野から東松島大曲までの海岸線で見えるかもしれないと思った。「おくのほそ道」というフィクションの内側に迫る気持ちになったものだ。

余計なことに触れたが、その建物はもうない。震災1年後に行ったときは、建物の集会施設的な一階を津波が貫通していた。2階部分も被災したが、資料は流されずに済んだと聞いた。今回その場所を訪れようとしたら、河川護岸工事等で至る所が「工事関係者以外は立ち入り禁止」の看板が立ち、入れない。場所すらも特定できないほど、当時あった道路やお小高い丘がどこなのか分からなくなるほど、工事で表面地形が変化していた。

通称の「新町」は、明治期の「野蒜築港」に由来する。創建600年という歴史を持つ「長音寺」というお寺も、明治期に新町に移転したらしい。檀家数が約400戸。明治期の集落がそのまま、地域を形成してきた。

しかし、5年たった新町は、人が住まない地域になった。野蒜築港で生まれた市街地は130余年前の野蒜の浜辺に戻ったかのように人の気配がなくなった。
長音寺の本堂は、震災から5年たった今もない。大震災で住職と家族を失ったというが、墓地には新しい墓碑が建ち、ご先祖様をこの地で供養しようという檀家さんたちの意思が伝わってきたが、本堂はないままだ。

たまたま、寺を管理する若いお坊さんと会い、話ができた。新町地区全体が「危険区域」で、野蒜駅の近くで発見されたというご本尊を祀る本堂を建てるにしても、「規制がかかる中で判断が難しい」というのだ。

鳴瀬地区全体では約500人を超す犠牲者を出したが、長音寺では檀家400戸の中で100人が犠牲になった。「来年は7回忌。そちらの供養をきちんとしなければ」と話していた。


鳴瀬川と吉田川が合流し仙台湾に注ぐ河口付近は護岸工事が盛ん。背後の「新町」地区は危険区域で住居が建たない区域に



右の建物は取壊される前の「野蒜築港資料室」が2階にあった新町コミュニティセンター。そこから見る海の向こうに「金華山」が見えたが…。今その小高い丘の場所の特定もできない



野蒜新町の長音寺では、山門の修復はできたが、本堂はない。その再建の見通しも不明だ



墓地の墓碑は新しくなった。同寺の檀家だけでも100人が亡くなったという



地域の人の心のよりどころとして建立。集落が消えて、まさに「村のはずれのお地蔵さん」に


0 件のコメント:

コメントを投稿