2016/04/29

2016年4月29日 - 東松島市 野蒜

鳴瀬川と吉田川が合流した河口から約600m上流に東名運河と接する「野蒜水門」がある。今、新しい水門を建設中。大震災で河口付近が40cm地盤沈下し、両河川の境目にあった中州が見えない感じになった。災害復旧工事では河岸堤防を5.7~7.2mの高さにし、これと合わせた水門を新しく造っている。形が見えているので、完成もそう遠くない。

東名運河は景観がいい。今でも、運河沿いの松の緑が鮮やかで、その調和がいい。その先は松島湾と接する「東名水門」までの3.2km。石巻の北上川から仙南の阿武隈川を結ぶ「貞山運河」(全長46.4kmは断トツ日本一長い運河)の一部だが、東名水門以東は明治に建設されている。ともに「野蒜築港」絡みの建設だった。

新しい水門は、築港時代のレンガ造りを壁面にそのまま残すという。北上運河の石井閘門もレンガ造りで、国の重要文化財。ちなみに阿武隈川から松島湾までの運河(木曳掘、新堀、御舟入堀)は1597~1875年までに造られた。北上運河(1878~1881年)と東名運河(1883~1884年)は、野蒜築港(1871~1884年)の最中に掘られた。

2016年4月28日 - 東松島市 野蒜」で触れたように運河南側に形成された「新町」は津波で崩壊し、非住居地域となった。運河の北側は昭和40年代以降、住宅地として開けたが、大震災で川からと仙台湾から新町、そして運河を越えて襲来した津波に襲われ、壊滅した。津波到達表示をみると、運河を越えたところでも、路面から高さ3m近かった。

JR野蒜駅は線路が流され、駅は高台に移設された。旧駅舎は一部がコンビニエンス・ストア―になり、東松島市の野蒜地区交流―センターとしても活用されている。廃駅のホームに立ってみたら、かすかに線路が見えるが、途中から土に埋まっている。上りの仙台方面に目を向けたら、線路上に高い盛り土が築かれていた。津波が運河を越えても、後方の住宅地を守ろうとする算段なのか。

大震災前、旧野蒜駅は夏になると大勢の客が乗り入れした。野蒜海水浴場への最寄りの駅でもあったが、保養所が数々あった。そこへの保養客も多かった。

余談だが、20数年前、交通事故による後遺障害で、野蒜駅から南に800mぐらい行った「余景の松原」付近にあった保養所的な医院に、約2カ月入院したことがある。今、その建物も含めて、住居らしいものは何一つ残っていない。


日本一長い「貞山運河」の一部分「東名運河」は野蒜築港との関連で、明治期に造られた。



「野蒜水門工事」。水門の壁面はレンガ造りにするそうだ。河川堤防の工事に合わせた構築物になるという。



旧野蒜駅を活用したコンビニ。隣に、観光案内も兼ねた野蒜交流センターも設けられた。



交流センター内部では被災当時の模様を写真で紹介している



旧野蒜駅ホーム。上り方面を見れば線路が途切れ、盛り土も見える。


2016/04/28

2016年4月28日 - 東松島市 野蒜

東松島市野蒜の海岸線が見たくて、鳴瀬川と吉田川が合流し仙台湾に注ぐ河口を目指した。大震災前、河口に近い小高い場所にあった「野蒜築港資料室」(新町コミュニティセンター2階)からの眺めが良く、よく晴れた日には頂上が尖がった特徴のある金華山がはっきりと見えた。

 そのとき感じたのは松尾芭蕉がその昔、「おくのほそ道」で記した「踏みたがえて石の巻という湊に出。「こがね花咲」とよみて奉たる金花山、見わたし」の下り。日和山からでは金華山は牡鹿半島の陰で見えない。鳴瀬・吉田の河口から見えるとすれば、石巻の雲雀野から東松島大曲までの海岸線で見えるかもしれないと思った。「おくのほそ道」というフィクションの内側に迫る気持ちになったものだ。

余計なことに触れたが、その建物はもうない。震災1年後に行ったときは、建物の集会施設的な一階を津波が貫通していた。2階部分も被災したが、資料は流されずに済んだと聞いた。今回その場所を訪れようとしたら、河川護岸工事等で至る所が「工事関係者以外は立ち入り禁止」の看板が立ち、入れない。場所すらも特定できないほど、当時あった道路やお小高い丘がどこなのか分からなくなるほど、工事で表面地形が変化していた。

通称の「新町」は、明治期の「野蒜築港」に由来する。創建600年という歴史を持つ「長音寺」というお寺も、明治期に新町に移転したらしい。檀家数が約400戸。明治期の集落がそのまま、地域を形成してきた。

しかし、5年たった新町は、人が住まない地域になった。野蒜築港で生まれた市街地は130余年前の野蒜の浜辺に戻ったかのように人の気配がなくなった。
長音寺の本堂は、震災から5年たった今もない。大震災で住職と家族を失ったというが、墓地には新しい墓碑が建ち、ご先祖様をこの地で供養しようという檀家さんたちの意思が伝わってきたが、本堂はないままだ。

たまたま、寺を管理する若いお坊さんと会い、話ができた。新町地区全体が「危険区域」で、野蒜駅の近くで発見されたというご本尊を祀る本堂を建てるにしても、「規制がかかる中で判断が難しい」というのだ。

鳴瀬地区全体では約500人を超す犠牲者を出したが、長音寺では檀家400戸の中で100人が犠牲になった。「来年は7回忌。そちらの供養をきちんとしなければ」と話していた。


鳴瀬川と吉田川が合流し仙台湾に注ぐ河口付近は護岸工事が盛ん。背後の「新町」地区は危険区域で住居が建たない区域に



右の建物は取壊される前の「野蒜築港資料室」が2階にあった新町コミュニティセンター。そこから見る海の向こうに「金華山」が見えたが…。今その小高い丘の場所の特定もできない



野蒜新町の長音寺では、山門の修復はできたが、本堂はない。その再建の見通しも不明だ



墓地の墓碑は新しくなった。同寺の檀家だけでも100人が亡くなったという



地域の人の心のよりどころとして建立。集落が消えて、まさに「村のはずれのお地蔵さん」に


2016/04/26

2016年4月26日 - 女川

旧女川一小で「認定NPO法人カタリバ」が被災地の放課後学校「コラボスクール・女川向学館」を開いているというので、友人で大阪音楽大学名誉教授の和泉耕二さんとともに訪問した。関西を中心に歌曲の歌い手たちが東日本大震災の支援を続けており、その関係で和泉さんに同行した。

女川町は850人近い人が犠牲になった。人口に対する死亡者率は被災地トップだった。海辺に面した市街地の大半が十数mの津波の襲来を受け、壊滅的な被害を受けた。高台の病院は残ったが、役場や駅など公共機関が機能を失い、商店街は姿を消した。

そんな中で、児童生徒たちの教育環境をどう守るかは大きな課題でもあった。3年前に小学校と中学校をそれぞれ1校に統合したものの、それでも課題山積の中、「認定NPO法人カタリバ」による「女川向学館」が、子どもたちの放課後をフォローしてきた。

石巻から国道398号線を走り女川町に入って少し行ったところに、コバルトラインに向かう道路と交差する地点がある。旧女川一小は交差点を左折し高台にのぼってすぐのところにあった。午後4時過ぎ、駐車場から歩き出したところ、見知らぬ我々二人に明るく「こんにちは」とあいさつする子どもたちがいた。聞けば「学校からバスで来た」という。

 昇降口を入って正面に掲示板がある。その日の時間割が掲示されていた。16時30分~17時20分が小学生対象。低学年が1教室を使い、高学年が学年ごとに分かれて授業形式で学習する。中学生は18時15分~19時35分の間に3教室に分かれ、中3理科、基礎英語、応用英語を学ぶという時間割が組まれていた。その脇に教室案内図。建物の1階部分に「職員室」「IT教室・高校生教室」「自習室・教務室」「マイプロ教室」のほか4教室が配置されていた。

案内をしてくれた先生は渡邊洸さんという若い人。岩手県北上市出身だという。「小中学生の約35%がここに通っている」と説明してくれた。スタッフはいろいろ。県内外から駆けつけてきた約20人。学校の管理職を辞してきている人や、大学を休学して子どもたちの授業を見ている人もいた。

大震災から5年がたったが、復興は道半ば。住宅事情から家庭学習ができる環境にない子どもたちや、メンタル・ケアの必要な子どももいる。「女川向学館」の先生たちは、そうした点に注意し、震災後ずっと子どもたちと接してきたという。

認定NPO法人カタリバのコラボスクールは女川と岩手県大槌町で開いている。女川の場合、町や教育委員会のほか、主要な地元企業や団体が支援しているが、「資金は足りない」と渡辺さん。そうした状況を知った関西の日本の心を歌曲で歌う集団が、「少しでもお手伝いしたい」という気持ちを持ち、石巻市出身の和泉さんが調査のために訪れたというもの。

和泉さんは「被災して間もなくのころと5年たった今では、被災地への支援のパワーが違うことをあらためて知った。子どもたちの生き生きした姿を見て、頑張っている先生たちへの支援が必要だ」と話していた。


小学校高学年の授業。先生の問いに手を挙げて…など学校と変わらない。



黒板に「木へん」の漢字を知っているだけ書き込む子どもたち



廊下には「四字熟語」が並ぶ



和泉さん(右)と案内してくれた渡邊さん



校舎の前には仮設住宅。復興はまだ道半ばだ



かつてはこんな風景も(カタリバのパンフレットから引用)


2016/04/25

2016年4月25日 - 石巻〜雄勝

縁とは不思議なものだ。生まれも育ちも違う男女が結ばれるには、決定的出会いがある。それを人によっては「赤い糸で結ばれた運命的な出会い」ともいう。偶然であり、必然でもある。だから「縁は異なもの味なもの」なのかもしれない。

24日、石巻グランドホテルで披露宴を行った若い二人(四倉由公彦さん、寛子さん夫妻)は、「伊達の黒船太鼓」のメンバー。大震災で市街地の大半が壊滅的被害を受けた雄勝地区を、ともに元気にしようと活動してきた仲間が結ばれた。

「伊達の黒船太鼓」は1990(平成2)年に、当時の雄勝町が町制施行50周年事業として創設した創作和太鼓集団。命名の由来は同町の呉壺でサン・ファン・バウティスタ号が建造されたという言い伝えによる。たまたま前年、石巻広域圏全体で「東北学おこし」が展開され、そこで「サン・ファン復元船建造」が具体化した。伊達の黒船太鼓は「進水式ではぜひ演奏したい。できれば、スペイン、ローマで…。」という大きな目標をもって創設された。93年5月22日の中瀬・村上造船所で行われた進水式では、その一つを実現し、勇壮に演じられた。

新郎とは、父(年思也さん=(有)四倉製瓦工業所社長。東京駅復元事業でスレート屋根の部門を担当し、一部を被災しながらも残った雄勝産玄昌石で屋根を葺いた責任者)と友人という関係で知っているが、彼と「伊達の黒船太鼓」の接点は9年前に硯伝統産業会館で開かれた「雄勝石と出会った30人のグラスアーチスト展」(新郎の叔母で小林未季さんが主宰の「未季会」=東京=が主催)だった。

1カ月余の開催で5,000人の有料入場者をカウントできたこの催しでは、コンサートも開いてきた。東京の和泉真弓さんのピアノ弾き語りのほかに、「ペルム幻想」(和泉耕二さん=現大阪音楽大学名誉教授=作曲)の演奏だった。それは「太鼓とピアノ」をコラボしたもので、ここで伊達の黒船太鼓と新郎が出会った。以来9年の歳月の中で東日本大震災が発生し、活動の拠点・雄勝地区は市街地が壊滅的な被災を受け、人口が激減している。

そうした中で、新婦も仲間入りした伊達の黒船太鼓の集団は、「町を、避難している人たちを元気にしたい」と演奏活動を展開してきた。その活動の中で、二人の愛は育まれたと、勝手に想像している。

披露宴では、雄勝の伝承芸能として復活を遂げた「雄勝町胴ばやし獅子舞味噌作愛好連」がオープニング演奏。新郎新婦は一対の獅子舞に守られるようにして入場した。席に着いた新郎は、愛好会の一員として、横笛を吹き、喝さいを浴びた。お色直しの後は、二人が入った太鼓の演奏。白袴に身を包んだ新婦の凛々しく躍動的なばちさばきにも大きな拍手が沸き起こっていた。


雄勝の伝承芸能「胴ばやし獅子舞」がめでたい席に花を添えた



新郎も笛を手に、獅子舞を盛り立てた



伊達の黒船太鼓の仲間たちと共に



新婦もときに凛々しく、そして躍動的に



新郎も力強くばちを振るった



演奏が終わって仲間と共に



感謝を込めて親に花束を贈る


2016/04/24

2016年4月24日 - 住吉

石巻市の住吉公園周辺を歩いてみた。川岸には路面から高さ1mほどのコンクリート壁が続き、見慣れた「川っぷち」のイメージから遠い風景になっていた。壁は「緊急浸水対策」として整備されたが、護岸堤防ではない。堤防計画では「北上川かわまちづくり事業」とか「水辺の緑のプロムナード事業」などの名称で本格整備するというが、具体的には見えてこない。

「親水階段(かわど)」や「石垣積みの自然護岸」などの言葉も計画の中に織り込まれているが、どう変わるのか興味深い。特に、川面の方に階段状に造られた「かわど」は、かつては生活の場。

子どもたちには、石垣に隠れているカニを捕獲する絶好の場だった。震災前、子どもたちの安全を考えて昇降禁止の柵が回されていたが、「川と市民生活」を語る上では貴重な川べりの遺構。今はコンクリート壁の下になり、消えた。

震災前まで「つながりの家」「けやき教室」になっていた旧市長公舎の建物はなくなり、駐車場になっていた。それとは別にうれしいことには、その向かいの「旧相馬家別邸」(相馬中村藩が戊辰戦争後、生き残りをかけて石巻に進出)と「土蔵」がそのまま残っていた。

誕生から2歳まで石巻に住んだという文豪・志賀直哉(父直温が国立第一銀行行員として石巻に赴任し、誕生)ゆかりの地でもある。

3.11の津波は道路敷きを水路のようにして住宅地を襲った。河畔にある相馬家別邸前の道路も水路のようだったという。その突き当りに「旧勝又医院」の建物と庭園があったが、津波が直撃した。

昭和20年代には「かさっこ医院」と地元で親しまれた皮膚科の医院だった。震災前には丸太塀や一部残っていた建物の壁には船板が使われるなど、風情があった。今は更地になっている。

あらためて「住吉山(すみよすさん)」の階段を上った。子どものころ、階段のヘリは滑り台だった。高学年になると階段を上るよりは、木々の間を縫って登った。今見ると、低い山だが、「なんで、平地のど真ん中に山があるのか」と、考えてしまった。

答えは出てこないが、この山で津波の勢力が弱まったり、流れが変わったことがあったはず。「明暗を分けた家もあったのかな」と、ぼんやり思った。

山を囲むような道路の角の家が新築していた。ナンと壁面はスレート造り。窓にはステンドグラス。2007年に雄勝の硯伝統産業館で開かれた「雄勝石と出会った30人のグラスアーチスト展」(東京・未季会主宰)を思い出した。


中央部分が高さ1mほどのコンクリート壁。川側に矢板が打ち込まれ、石が投下され、本格的な堤防工事へ入る兆しが…



震災前に川べりで見られた「かわど」



志賀直哉誕生と関係が深い「旧相馬家別邸」は、隣の土蔵とともに無事残っていた



道路を挟んで向こう側の左角には「旧勝又医院」の庭園があったが、今は更地に



こんもりとした「住吉山」。今見ると、低いが、津波はどう山に左右されたのかなどと考えてみた



角の家は壁面がスレート。産地の雄勝にも少なくなった家の作りが再現された


2016/04/23

2016年4月23日 - 住吉

石巻市の住吉公園には「飯石(いびし)大島神社」(通称〈住吉神社)」が鎮座。境内には仙石船船主の石灯籠があるが、一対の狛犬が見えなかった。倒壊し、流されたのか? それでも、鐘楼の屋根付近まで大津波が襲った割には公園内に建つ多くの石碑が残っており、少し安堵した。

2016年4月22日 - 住吉」で紹介したように、公園は「ふるさと緑の道」(石巻市→雄勝)の起点。それだけではなく、ここは仙台と石巻を結ぶ「石巻街道」の延長として「金花山道」(牡鹿・山鳥渡まで)が通り、ここを起点に涌谷・登米道(一部は一関道へ)、気仙道が分かれて築かれている。いわば、「交通の要衝」だった。その案内板を「袖の渡し」付近に見つけた。

住吉は舟運で栄えた歴史ある地域だけに、住吉公園内には文人たちの歌碑や句碑、あるいは記念碑などが建つ。その多くは津波の被害を逃れた。そのいくつかをカメラに収めてきた。神社の近くには合併前の旧石巻市が昭和8年に市制を施行した際に初代市長となった「石母田正輔翁像」がある。身じろぎもせず、じっと津波襲来を〝目撃した一人〟だが、どう感じただろうか。

その隣に「天皇陛下在位60年奉祝」の碑がある。昭和50年の歌会始に昭和天皇が詠んだ「我が庭の客居に祭る神々に世の平らぎを祈る朝々」を刻んでいる。石碑建立の実行委員会代表は故太斉惇さん(旧市の市議で、日曜写生会主宰、ボーイスカウト指導者などで活躍)。委員の名には太斉さんと交流のある同級生数人の名前も刻まれていた。
 「川開き由来の碑」も建つ。「海に臨んで大河を擁するこの地石巻には、古来水難供養の川施餓鬼が行われていた(後略)」などと書かれ、供養と海上航海の安全、石巻開港の恩人・川村孫兵衛への感謝を込めて始まったとしている。川開き祭りでは公園内で、川施餓鬼の供養を行い、付近から灯籠を流している。


「大島神社」。通称「住吉神社」。灯籠の一段下に一対の狛犬がいたのに、見えなかった。住吉三神を祀り、社殿には平田船の絵馬があるという



旧石巻市の初代市長「石母田正輔翁」胸像。「髭の市長」は大正時代にも町長だった



昭和天皇の在位60年を記念して、読んだ「御歌」を刻む



幕末から明治期にかけて石巻で活躍した俳人、保原花好の句碑。「名月やそよりともせぬ水の上」が表側に、裏面には「江の明かり残さで募るるもみじかな」と刻まれている



文化文政のころに活躍の二晶(にしょう=本名松本玄説、俳人、医師)の「樹に露のありて尾上の虱けれ」。その左は平安後期の歌人、相模女(さがみめ)の「涼しさも心に袖のわたり哉」の碑。二つの碑の中ほどに、木の切り株があるが、津波で枯れた松。横に広がり、50年も前の子どもたちもかけ上って遊んだ思い出の松



碑文が見えなくなったが、川開き由来が刻まれた石碑


2016/04/22

2016年4月22日 - 住吉

小さいころによく遊んだ石巻市の住吉公園に行ってみた。公園の入り口に「下馬」と記された丸い石があり、その脇に「ふるさと緑の道」の案内標示と看板がある。「下馬」は、文字通り馬から降りるところ。面白いことに、この石は「V」の字のように広がる公園、あるいは住吉町の「要(かなめ)石」に見える。人によっては「末広がりのおめでたい石」と言う。

案内標識の「ふるさと緑の道には「石巻市→雄勝町」とあった。コースは船で対岸の稲井地区にわたり、そこから真野地区へ向かい、林道を抜けて雄勝・味噌作に通じるというものだった。

その昔、石巻を訪問した松尾芭蕉は「おくのほそ道」で「袖のわたり・尾ぶちの牧・まのの萱はらなどよそめにみて…」と、記している。諸説があるものの「真野の萱原」は、稲井の真野と地元では信じ込んでいる。「真野の萱原伝説の地」という石碑が建つ真野・長谷寺は、真野林道の入り口。「袖の渡し」は住吉公園内。だから、住吉公園が雄勝に通じるふるさと緑の道の起点にふさわしいのかもしれない。

住吉公園界隈は、江戸時代からにぎわっていた。千石船で運ばれてきた荷物は平田船など小さな船に積み替えられ、北上川や住吉の街区に流れる堀を通じて陸揚げされた。明治になっても北上川には蒸気汽船が走り、住吉公園周辺はにぎわったという。

5年前の大震災では、公園内にある鐘楼の屋根の下まで津波が襲ったという。公園のシンボル的な「住吉山(すみよすさん)」頂上に避難した人も多く、河口からどんどん水かさを増した津波は「御島」をすっぽり覆い、勢いを持続して鐘楼を襲ったと目撃していた。

「御島」に通じる朱色に塗られた太鼓橋には「立ち入り禁止」の札が立つ。岸辺に応急措置としてのコンクリート壁があり、渡ろうとしても入り口が封鎖されているうえに、注意書き。それも「御島」が危険だから。素人目に「御島」の地盤沈下が、分かる。

満潮時なのかもしれないが、石巻の地名の由来にもなっている「巻石」も、沈んでいるように見えた。以前は「巻石」の脇に、も一つの石があったように記憶しているが、その石は何度行っても見当たらない。「巻石」に寄り添うように枝を伸ばしていた松は大震災直後に枯れ、今もそのままだ。


公園の入り口に「下馬」の石。そこから「V]の字に住吉が末広がりに。だから「要(かなめ)石」ともいう



雄勝に通じる「ふるさと緑の道」の標識 



その昔、北に逃避行の源義経が渡しの料金として自ら着衣の袖を渡したという伝説にちなむ「袖の渡し」の石碑(右)



明治14年開業の岩手県一関狐禅寺と石巻仲町を結ぶ北上川の航路発着場のにぎわいを描いた絵図(毛利コレクション所蔵)「御島」には「丸さ」の屋号の佐々木惣吉旅館が建ち、川舟汽船の宿として栄えたようだ



住吉公園内の「鐘楼」。屋根の下まで津波が押し寄せた



立ち入り禁止の太鼓橋。「御島」は地盤沈下しているし、石垣も崩れているという



枯れた松の下に「巻石」手前はコンクリートの護岸


2016/04/21

2016年4月21日 - 中央〜湊

石巻市の中瀬に架かる内海橋の湊地区側に「八幡町歩道橋」があり、上から四方をカメラに収めた。北上川に向かって手前側は八幡町界隈。橋に近い場所の河岸付近にあった商店や住宅はほとんど消えていた。

市街地から橋を渡ってすぐ左側に「大華楼」があり、床屋さんや果物屋が並んでいた。交差点を左に折れたところに「橋本蒲鉾店」などがあったが、その辺は、新内海橋建設の資材置き場になっていた。

新内海橋は、現在よりやや上流側に建設中。中央3丁目の石巻署中央交番(かつては「仲町交番」)前というから、昭和40年ごろを知っている人には「宮交バス仲町案内所」の方が分かりやすい。その場所から対岸の八幡町に架けるというものだ。

全長202m。幅員は車歩道合わせて14・5m。2017年度完成に向けて工事が進められ、川の両岸から伸ばしている橋げたはまだ中央でドッキングしていない。

現在の内海橋は欄干が歪み、大震災で老朽化が進んだ感じ。大型車両の交通を制限しているが、市街地と湊地区を結ぶ道路として欠かせない。写真を撮った日(16日)も朝から結構な交通量だった。

市街地から内海橋を渡って右側にも美容院や住宅が並んでいたが、更地になっていた。国道389号線の両側も更地が広がっていた。国道の西側に知り合いのテーラーがあったが、ない。東側の神社脇の「宮本水産」は駐車場になっていた。

神社とは「箱崎八幡宮拝幣志(はいへいし)神社」。「日本武尊が勧進した」と伝えられ、昭和30年に「鎮座1850祭」だったというから、1900年以上の歴史を持つらしい。格式の高い神社で、陸奥国の式内社100社中、15あるだけの大社の一つ。
記録では天保年間に拝殿を造営。入母屋造りで、朱色に塗られたといい、その建物は北を向いて建てられていることから「北向き八幡」とか、「はいへいし」以外に「おがみ神社」とも呼ばれたと、地元の人に教えられた。

しかし、震災前まであった朱色の拝殿は全壊し、取り壊された。拝殿の後ろ側にあった本殿がかろうじて残った。


二つの橋が並行。左が内海橋で、右が建設中の新内海橋。手前側は建設資材置き場に



新内海橋は両岸から工事を進め、中央での橋げたドッキングはまだ先



現在に内海橋。なお交通量は多い



ずっと向こうが河口。内海橋たもとに近い川岸に更地が広がっている



渡波・女川方面に通じる国道398号線。左側に神社がある



本殿は残ったが、その前に立っていた朱色に塗られ美しかった拝殿は全壊し、今はない



遠く不動町を望むが、手前の八幡町の建物も道路敷きも消え、以前の姿はない


2016/04/20

2016年4月20日 - 中央

石巻市中央一丁目のメーン道路「市役所通り」(かつては「坂下通り」)が雰囲気を変えている。道路拡幅工事が進み、新しい街並みが出来上がるのも近くなった。平成22年に市役所が駅前に移転してから、人の往来が減った。
そこに東日本大震災。5年間で区画整理事業として新しい街区の形成に力を注いできた結果が、間もなくベールを脱ぎ、明るい景観の街並みに生まれ変わりそうだ。

メーン通りと裏側の道路を歩きながら、廃業した医院や旅館、店などが多いことにも気づいた。

更地になっているところが今後どう変わるのか、変わらないのか。震災前の「家が立て込んでいる」という雰囲気は、はっきり言って消えた。一帯は昭和40年代初めごろまで盛んだった「金華山講」に訪れる団体旅行客を泊めた旅館が集中していた。その何軒かはもうなくなっていた。

もっと昔の藩政時代には伊達の殿様が牡鹿半島で狩りをするときに、宿泊(「日の出」付近に仮御殿があった)した地域ということで名付けられた「御殿横丁」や「御殿わき通り」、あるいは「本町小路」という通り名が、散策して思い出された。

幼いころ、後町(門脇町-西光寺周辺)の親戚の家に父と一緒に訪ねた帰り、本町小路の「ちゃきん屋さん=だんご処畑中」によく寄ったものだ。この通りには、独身時代に行きつけのスナックもあった。小路の南と北の入り口付近にあった事業所や旅館などを含めて半分は更地になっていた。

市役所通りと並行する東側の本町通りには、大震災前に市役所分庁舎(昭和50年代まで石巻郵便局)や内科クリニック(昭和50年代まで石巻電報電話局)などがあったが、分庁舎は復興公営住宅に建て替えられ、旧電報電話局側は民間が開発した「リバーサイトMOTOMACHI」(建設中)という復興住宅ビルに変わりつつあった。


市役所通りでは道路拡幅工事が進む。近いうちに新しい景観の街並みに



本町通りには、復興住宅のビルが向かい合わせに



御殿横丁。まっすぐ行くと広小路。左角には「日の出」があった



本町小路は右に「守平商店」、左側に木工所があり、道路の突き当りが「中村旅館」。途中にスナックや「だんごや」さんも



広小路の歩道にはチューリップが咲く