2016/04/08

2016年4月8日 - 中瀬

石巻市中瀬の面積は約6ヘクタール。昔の水田規格で言えば「田んぼ60枚」程度の広さ。しかし、石巻市の「大衆文化史」では、忘れてはならないという点では、大きな存在感がある地域だ。その基礎は1882(明治15)年の内海橋架橋に始まる。内海五郎兵衛が私財を投げ打って造った「内海橋」はやがて、人々の交流を生み、内海座→岡田座(劇場)→石ノ森章太郎→石ノ森萬画館と一本の導線でつながっていた。

岡田座の前身は「千葉座」。幕末のころ、北上川の西側に位置する仲町界隈に旗揚げした芝居小屋は、内海橋架橋によって移転する一方で、「千葉座」経営者の千葉源七が内海五郎兵衛を支援。それが縁で、内海橋完成後、千葉座は中瀬に移転したという経過をたどる。

五郎兵衛は稲井水沼の出身。父の急病で川を挟んだ石巻の医師を呼ぼうとしても雨で渡し船が動かず、ついに父を死なせてしまう。そんないきさつがあって「北上川に橋を」と運動を進め、当時2万5000円という大金を投じて中瀬に2本の木橋を架けたという。その五郎兵衛は千葉座を譲渡し「内海座」に。その後、架橋に尽力した岡田屋組の八城重兵衛の手に渡り、後の興行師・菅原一蔵の手腕によって岡田座→岡田劇場の隆盛につながっていく。

大震災前に岡田劇場の前に大きな看板があった。「岡田座思い出五人衆」というタイトルで描かれた似顔絵の人物五人衆とは、ジャイアント馬場と由利徹、三波春夫、美空ひばり、石ノ森章太郎だった。漫画家の石ノ森は、現在の登米市中田に住んでいた中学、高校時代に自転車で岡田座に来て、阪妻の「紫頭巾」や嵐勘の「鞍馬天狗」、長谷川一夫の「銭形平次」、片岡千恵蔵の「七つの顔を持つ男」、市川右太衛門の「旗本退屈男」などを見続けたという。

石ノ森のストーリー漫画の感性を育んだ映画館・岡田座の縁で、2001年に「萬画館」が誕生した。公園敷地内には「内海翁紀功碑」が津波にびくともせず建っていた。岡田座は大震災で建物のすべてを流され、跡地は今も更地になっている。萬画館は震災で一階天井近くまで進水したが、持ちこたえた。当時、40人ほどが5日間そこで救出を待ったという。翌年11月に再開し、中心市街地への誘客で存在感を示している。



内海橋を私財を投じて建設の内海五郎兵衛。彼をたたえる石碑は津波に動じずに立っていた



岡田劇場の跡地は更地に



岡田劇場の前には「思い出の五人衆」の看板もあった



岡田座から石ノ森、そして「萬画館」へ


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