2016/05/31

2016年5月31日 - 日常 (ミニ報告77)

2月下旬に「毎日が日曜日」になって、3カ月が過ぎた。この間、ミニ報告を77回(本日時点)連載してきたが、日常的には「時間があって、ないような生活」を送っている。暇のようで暇でないのは、サラリーをいただいて仕事をしている時間帯に、私生活の時間が大量に入り込んだためだ。つまらないことなのだが、地域の中の一員として生きていく上では、削られない時間でもある。そんな中でカメラに収めてきた数コマを紹介したい。

 「健康寿命を延ばしたい」と、やり始めたのが「パークゴルフ」。地域の人に誘われた。少しばかりかじったゴルフは10年前、50肩で止めたまま。「年金が収入のすべて」という生活では、ゴルフの再挑戦は資金的に無理。その点、パークゴルフは安上がり。一日大人500円で遊べる。しかもゴルフと同じルール。コースは緑いっぱい。「毎週金曜日に練習会」という以外にも、一人ぶらっと出向くなどすっかり病みつきになっている。

 練習会場は石巻市北村字前山にある「かなんパークゴルフ場」。月曜日が休みで、ほぼ年中無休。1コース9ホール(パー33)を4コース設けており、どのコースも待ち時間が出るぐらいにぎわっている。自身の成績は4コースで132のパーゴルフがせいぜい。なかなか上達しないが、70歳代女性で100台はザラだという。女性のゴルフファッションを見ていると、「男は負けそう」な気になった。

 「サンデー毎日」と知って、声がかかったのは「麻雀」。しかも上に「健康」が付く。「3ない麻雀」とも言って、「たばこを吸わない」「酒を飲まない」「金品を賭けない」が基本。ルールは同じ。石巻や東松島に数グループある。誘われて石巻市日和が丘のTさん宅の「健康マージャン教室」に通っている。毎週水曜日と木曜日の午前10時から正午まで行っている。時間ぴったりで終わるので、予定が立てやすいのがいい。

 それでも、毎回は通えない。5月のある日に「明日はコミュニティ・マージャンの日です」というメールが入ったので、何事かと思って参加したら、石巻市福祉協議会が所有のジャンボサイズの麻雀牌を使ってのプレーだった。東西南北にそれぞれ3人ずつ座り、協議して打つというもので、なかなか面白かった。

 地域の仲間と今月22日から「最上町への2泊3日の旅」に出掛けた。地域での旅行は20数年ぶりだ。それも奇妙な縁による旅だった。メンバーの何組かの夫婦があの大震災の直後、避難所の学校から「脱出」を試みた。「東京から来た息子が言うには、女川原発も間もなく爆発する。逃げよう」となったのだ。

震災から2日後の夜、10トントラックの荷台に毛布を敷いて乗り込んだ16人が目指したのは、日本海。しかし、翌日の明け方あまりに寒くて山形県最上町のコンビニで暖を取った。そこで、町の有力者と会い、事情を話したら「まずは温泉にでも入って暖まった方がいい」と「保養センターもがみ」へ招かれたという。

 以来、2カ月余。彼らは福島県からの避難者と共に、温泉で過ごした。震災から5年。「お礼も兼ねて」という発案に賛同した地域のメンバーと共に、最上行きとなった。ホテルのすぐ近くには総天然芝生張りのグランドゴルフ場があり、湯に入ったほかにカラオケを楽しみ、グランドゴルフでのんびりと時を過ごしてきた。

 週末に孫娘2人(5歳10か月と2歳4か月)が家にやってくる。妻が面倒を見ているが、家のことを一切しない自身ができることと言えば、孫と遊ぶこと。妻と4人でイベント会場に出掛けたり、公園や図書館に行ったり。一日いっぱいでなく途中で逃げだすにしても、少し真面目に付き合わなくてはならない。29日も石巻市稲井の金蔵寺で開かれた「寺フェス」に出掛けた。

 盛りだくさんのプログラムだったが、孫は買い物と食べるのに夢中。天気にも恵まれて盛況だった。


かなんパークゴルフ場。団体のコンペも多く、4つのこーすはいつも待ち時間ありの盛況ぶり。



プレーヤーの半分は女性。「女性が輝くステージ」の感じだ。



リーチがかかりました。ジャンボサイズの麻雀牌で健康マージャンも。



大震災直後に山形新聞に掲載された記事では「温泉ホテル 避難所に」「最上町 宮城から被災者到着」の見出しで紹介された。当時避難した夫婦らメンバーと共に、5年前のお礼を兼ねた温泉旅行に。



最上のホテル近くにある町営のグランドゴルフ場で、プレーを楽しむ。



金蔵寺【石巻市稲井)の「寺フェス」では山門前のステージで生の演奏も。



「寺フェス」では裏千家の抹茶のおもてなしも。



子どもたちの人気を集めた「金魚すくい」?(寺フェス)



にぎわうフリーマーケット(寺フェス)


2016/05/30

2016年5月30日 - 石巻市 日和山

石巻市は「海に扉を開いたまち」である。古くは千石船で江戸へ米を運び込んだ。江戸で消費する6割は「本石米」と言って、仙台藩だけでなく盛岡、一関、八戸の各藩から北上川を利用して石巻に集められ、千石船に積み替えて江戸へ運び込んだ。そして今、旧北上川河口を挟んで西に工業港、東に新漁港を有し、平成27年度は工業港の貿易額は輸入94億8000万円、輸出472億9500万円となり、石巻魚市場の水揚げ高は180億円と震災前の水準に近づいた。その扉を開いた人は川村孫兵衛重吉である。

 今年、石巻市と山口県萩市が友好都市の締結を結んだ。それは孫兵衛の出身地に由来する。1575(天正3)年、孫兵衛は長州・阿武の庄に生まれた。毛利家に仕えていたが、関ヶ原の戦いで敗者となった毛利家が減封されたことで浪人となり、その後、縁があって伊達政宗が召し抱えた。

 北上川の改修事業は1616(元和2)年から1626(寛永3)年までの10年間続いた。簡単に説明すると、はじめに迫川と江合川を合流させ、北上川につないだ。次に鹿又からほぼ直線的に南流していた流路を真野川に合流させるために、袋谷地で「S」字型に掘削、石巻湾に流した。さらに川の幅を広げ、岩手県北上市の黒沢尻や盛岡までの舟運が可能になった。

 日和山公園に建つ孫兵衛像は昭和58年の市制50周年記念に河北新報が寄贈した。像は鹿又の八雲神社所蔵の「川村孫兵衛開削の絵」を参考に造られた。開削を始めたころ、藩からの工事費が十分でなかったため、孫兵衛は領内各地の富豪や篤志家を説得して資金を工面した。また、人夫と寝食をともし、実測においては自ら野山を歩き調査した。像はそうした孫兵衛の働く姿を表現している。

 孫兵衛像の向かい側には石巻開港350周年記念碑が建つ。孫兵衛が改修を終えた年から数えて350年の1976(昭和51)年に設けられ、碑文には「母なる川北上川は岩手町御堂観音、弓弭(ゆはず)の泉を源とし、蜿蜓(えんえん)247kmを流れ、石巻の河口で太平洋に注ぐ」とあった。掘削を始めた1616年から数えると、今年は400周年。記念の年に萩市との友好都市締結となった。

 日和山公園はサクラの名所。「花をたたえて」「桜の碑」の石碑もある。その中の「桜の碑」は石巻さくらの会代表を務めた大苗代伸成さんの{花心有情」という題の詩歌。

「南風に乗って/海鳴りが聞こえてくる/春霞が立ちこめ/日和が丘は/桜の花で彩られ/喜びに溢れている/私達に先輩たちの心を/引きつがせるかのように/日和が丘は/そよ風もかるい/喜びを育てよう」

と刻まれている。


 「海に扉を開いたまち」だが、昭和35年にチリ地震津波、平成23年には東日本大震災による津波が北上川を逆流し、河岸の町を破壊し、多くの命と財産を奪った。石巻の2つのロータリークラブが「チリ地震津波碑」を建て、石巻市老人クラブが「東日本大震災祈念碑・友愛」を日和山公園内に建てている。


川村孫兵衛重義の銅像。



孫兵衛の像の参考にした絵は鹿又の八雲神社に残る。



改修前の県東北部の川の流路。



孫兵衛の改修後の北上川。



改修350周年記念碑。



大苗代さんによる「花心有情」の桜の碑。



石巻さくらの会による「花をたたえて」の碑。



チリ地震津波記念碑。




老人クラブが建てた「東日本大震災記念碑」。


2016/05/28

2016年5月28日 - 石巻市 日和山

昨年の夏、大震災で被災した石巻市南浜町の石巻文化センター敷地内にあった「木俣修歌碑」が、木俣が主宰した短歌結社「形成」の流れをくむ「波濤(はとう)みやぎ支部」を中心とした歌碑移転再興をすすめる会によって、日和山公園内に移設された。

 大漁の旗あぐる船より呼ぶこゑにこたふる 如(な)して海鳴りの音

 木俣は1906(明治39)年、滋賀県の生まれ。昭和6年から3年間、宮城師範学校に教師として在任、仙台に居住した。昭和34年から同58年(没年)まで宮中歌会始の選者を務めたが、「大漁の…」は、仙台在住のころの昭和9年ごろ石巻を訪れ、詠んだという。

 仙台にいた関係か木俣に師事した人は県内に多く、かつて門脇中校長だった故阿部秀一さん(穀町)もその一人。彼は門脇中校歌のほか、稲井小(作曲は末永聡行)向陽小(同)貞山小(作曲は太田昭)大街道小(作曲は原谷宏)の校歌も作詞している。

 歌人の斎藤茂吉(1882=明治15~1953=昭和28年)は、木俣より少し前の昭和6年11月、長兄の守谷広吉の死去で生家のある山形県上山に帰郷。葬儀に参列した後、鳴子、平泉の中尊寺、石巻、松島、仙台を巡った。石巻では11首詠んだというが、そのうちの一首が日和山公園内に歌碑として建つ。

わたつみに北上川の入るさまのゆたけきを見てわが飽かなくに

 釈迢空(折口信夫=明治20年大阪生まれ)が戦後の昭和23年4月に神社庁の仕事で石巻を訪れ、作品3首を詠んだ。その一つが石に刻まれて、公園内にある。

海のおもいよいよ青しこのゆふべ田しろあぢしまかさなりて見ゆ

 釈迢空の歌碑の近くに、幕末から明治にかけて石巻で活躍した俳人、保原花好(1830~1903年)の句碑も建つ。「瀧音毛(たきおとも)誘う日和や春乃山」。彼の句はほかにも住吉公園の雄島に2句あり、さらに市内随所にあるが、調べていない。

 地元の俳人では、大坂岸和田出身の弁護士で1900年ごろに石巻市新田町に移住したという佐藤野老の句碑もあったが、字は読めなかった。調べたら「梅久し有明月尓(に)よいつきに」という。


木俣修の歌碑。



斎藤茂吉の歌碑。



釈迢空の歌碑。



保原花好の句碑。



佐藤野老の句碑。


2016/05/26

2016年5月26日 - 石巻市 日和山

砕けてはまたかへしくる大波の ゆくらゆくらに胸おどる洋

 石川啄木(本名は一、1886~1912年)は岩手県渋民村の生まれ。盛岡高等小学校から旧盛岡中学校に進んだ。3年先輩に金田一京助、10歳下には宮沢賢治がいた。冒頭の歌は中学5年生当時の1902(明治35)年5月28日に修学旅行で石巻を訪れ、長浜海岸を詠んだ2首のうちの一首。

 啄木の歌碑が日和山以外に荻浜にもあることは、「ミニ報告32」で紹介した。その時(明治41年)は北海道から三菱汽船の船で上京する途中、荻浜に5時間停泊した中で詠んだという。修学旅行は海からではなく、北上川を川蒸気船で下って、石巻から北上運河と東名運河を通って松島湾に抜け、仙台まで行った。

 10歳下の宮沢賢治は啄木の訪問から10年後の明治45年5月27日、啄木と同じような行程によって、修学旅行で石巻を訪れている。賢治が作った詩歌は次の通りで、石碑に刻まれている。今から100年以上も前の5月の下旬に訪れた2人は、ともに10代半ば。作品のすごさに驚く。

われらひとしく丘に立ち
青ぐろくしてぶちうてる
あやしきもののひろがりを
東はてなくのぞみけり
そは巨いなる塩の水
海とはおのもさとれども
伝へてききしそのものと
あまりにたがふここちして
ただうつつなるうすれ日に
そのわだつみの潮騒えの
うろこの國の波がしら
きほひ寄するをのぞみゐたりき

 賢治の詩歌碑は公園内のだんご屋さんなど売店の後方付近にあるが、啄木の歌碑は「お花見広場」とか「大広間」と呼ばれる場所に建つ。その近くに新田次郎の歌碑とフランク安田顕彰碑が建つ。歌碑には「北上川の盡(つ)きるところのかすみにはなおとまどいの青き波かな」と刻まれていた。

 フランク安田(安田恭輔)は新田次郎著「アラスカ物語」の主人公。1868(明治元)年11月20日、石巻市湊に生まれる。啄木が上京する際に乗ってきたという三菱汽船の石巻支店(荻浜)に勤務するが、19歳で渡米。やがて「ジャパニーズモーゼ」と言われるほどの活躍を見せた。


石川啄木の歌碑。ここから河口と長浜海岸(新漁港)が見える。



宮沢賢治の詩歌碑。海を初めてみた感動が伝わってくる。



新田次郎が「アラスカ物語」を書くにあたって石巻を訪れた際に詠んだ歌を石碑に刻む。



フランク安田の顕彰碑。


2016/05/24

2016年5月24日 - 石巻市 日和山

石巻市日和山にある鹿島御児神社境内(拝殿に向かう階段の右側)に、ひっそりと建つ句碑がある。字は判読が難しい。「松尾芭蕉句碑」の立て看板があって分かったが、説明がなければ誰が詠んだ句か分からない。足を止める人もいない。それぐらい目立たない。

立て札の説明によれば「雲折々人を休める月見かな」(月見をしていると月に見惚れて我を忘れるが、時々雲に隠れたときに一息つくことができる)と、解説も含めて記されていた。

芭蕉(1644~1694年)は1689(元禄2)年6月26日(旧暦5月10日)、石巻に入った。「おくのほそ道」には「道たがえて石巻という湊に出。こがね花咲くとよみて奉たる金花山を海上に見渡し、数百の廻船入り江につどひ、人家地をあらそひて、竈の煙たちつづけたり。思ひかけず斯る所に来れる哉と、宿からんとすれど、更宿かす人なし(後略)」と記しているが、随行の弟子・曽良の日記によれば「新田町の四兵へ」宅(現在の石巻グランドホテル敷地内)に泊まっている。

曽良日記ではほかに「到着後、小雨。とみてやむ。日和山という山に上る。石巻中見渡し得る。奥の海(渡波、万石浦)、遠島(牡鹿半島)、尾駮の牧山眼前也。真野の萱原も少し見える。帰りに住吉神社参詣。袖の渡り。鳥居の前也」と詳しく記録している。

 日和山にある芭蕉の句は西行が詠んだ「なかなかに時々雲のかかるこそ 月をもてなすかぎりなりけり」を踏まえて作られたという。説明板によると「1685(貞享2)年、芭蕉42歳の句であると推定されている」いうから、奥の細道に旅立つ前に詠まれた。句碑は1748(廷享5)年に建てられたとあり、古い。

 日和山公園内には芭蕉と曽良の像が建つ。1988(昭和63)年6月26日に「おくのほそ道」紀行300年記念に建ったもの。台座には「師弟愛を顕彰し記念とする」と刻まれていた。この位置から田代島や網地島がかすかに見えるが、金華山は半島に隠れて見えなかった。

 大震災で「祈りの地」になった日和山公園だが、芭蕉が約330年前そこから眺めた「眼下のにぎわい」は、石巻の完全復興に欠かせない。その点、まだまだ道半ばである。

日和山には「石巻城址」の石碑も建つ。源頼朝の御家人葛西清重の居城があったところと伝承されている。葛西家は奥州合戦の恩賞として1189年に牡鹿郡ほかの所領を得、以後豊臣秀吉によって1590年に滅ぼされるまでの約400年間を15代にわたって統治した。

「石巻城跡」という説明板には「1983(昭和58)年の発掘調査でここ日和山に大規模な中世城館があったことが確認された」とある。


大きな木に隠れるようにひっそりと建つ「松尾芭蕉句碑」説明板がないと見過ごしてしまいそうだ。



「奥の細道」の石柱は、芭蕉が立ち寄った先に建っている。



芭蕉と曽良。台座には「紀行300年記念」とある。



「史跡 石巻城址」の石碑。



石巻市羽黒町の鳥屋神社に奉納された絵馬には「にぎわいの石巻」

2016/05/22

2016年5月22日 - 石巻市 日和山

石巻市の高台で市民憩いの場所である「日和山公園」に行ってみた。そこには松尾芭蕉、石川啄木、宮沢賢治などの歌碑や句碑があり、「文学の径(こみち)」のようだ。それらを訪ね歩くとたっぷり2時間。色とりどりに咲き誇る市の花・ツツジを眺めながらの散策は、気分が爽快。何回かに分けて、紹介したい。

市営の駐車場に車を止め、歩き出してすぐのところに、白い石柱が建っている。種田山頭火(1882~1940年)の歌碑で、とある「水底の雲もみちのくの空のさみだれ あふたりわかれたりさみだるる」。仏門に入った山頭火は45歳ごろから全国放浪の旅に出たというが、石巻には1936(昭和11)年6月26日=旧暦5月10日)、芭蕉と同じ日に訪れて、「水底の…」と詠んだ。歌碑には旅日記の一節「早い朝湯にはいってから日和山の展望をたのしむ美しい湊の光景である。芭蕉の句碑もあった」も刻まれている。

 山頭火は友人である佐藤露江さんを訪ねてきたという。ちなみに佐藤さんは戦後復刊した石巻日日新聞の社長で、旧石巻市史を編纂した人。管弦楽と合唱と踊りのためのカンタータ「大いなる故郷石巻」(石島恒夫作詞、小杉太一郎作曲)に挿入の「石巻の風景」作詞者でもある。   
 
そこからは、中瀬を中央に置いた市街地が望めた。やや太いサクラの樹木が花を咲かせたときには、その景色は一段と美しさを増す。その光景に心を奪われた一人に、テレビの「笑点」でおなじみの落語家、林家たい平さんもいた。大学を卒業して進路に迷いがあったころに、このサクラの木の前で「落語家になる」と決意したことで、今年4月そのサクラを「たい平桜」と名付けた。命名由来の立て札も巨木の前にある。
 
巨木から20mも歩くと石巻市出身の医師で歌人の山形敞一さん(1913~1998年)の歌碑「散りかかる桜の下に人つどう造船のひびき聞こゆる丘に」が建つ。山形さんは旧石巻中(現在の石巻高校)3回生。同期に涌谷町から通っていた、後の週刊朝日編集長で評論家の扇谷正造さん、海を主題にした3部作などを創作した彫刻家の高橋英吉さんがいる。いずれも故人。

山形さんは東北大学医学部教授などを歴任し、がん撲滅と闘ってきた医師。日本で初めて胃がんの集団検診を始めた黒川利雄学長の遺志を継ぎ、早期発見に胃カメラと細胞診断を導入し「宮城方式」を確立、日本の消化器病研究で先端を走っていたという。

昭和50年代に石巻の大学誘致や市民病院の建設構想などでご尽力をいただいたころ、記者会見の末席にいたり、講演を聞いた記憶がある。その中で、アララギ派の歌人であること、石巻をこよなく愛していた人であることが、よく分かった。

2011年3月11日の大震災以来、日和山公園を訪れる人は絶えない。特に鹿島御児神社の大鳥居付近から旧北上川河口を望む場所は「慰霊の地」ともなった。門脇・南浜町の被災の大きさを再認識しながら、黙とうをささげる人も少なくない。

日和山はサクラの名所でもある一方で、市の花・ツツジが美しく咲くところでもある。神社の大鳥居付近のツツジは今が見ごろ。石巻に縁の深い人たちの足跡を歌碑ほかで探りながら、ツツジを楽しむのもいい。



山頭火の歌碑。平成元年6月25日に、みちのく山頭火の会が建立。



落語家の林家たい平が進路を決意したことから「たい平桜」に命名。



石巻市出身のアララギ派歌人で医師の山形さんが詠んだ歌が刻まれている。



人が絶えない日和山公園。ツツジがきれいに咲いた。



「文学の径(こみち)だね」


2016/05/20

2016年5月20日 - 石巻市 牧山

石巻市の「牧山」(標高250m)は頂上(零羊﨑神社付近)まで車で行けるが、ハイキングにもいい。御所入から頂上を経由して大門崎まで下るコース以外に、途中から林の中を抜けて大門崎へ向かうこともできる。行ったことはないが、稲井地区から頂上を目指すコースもある。緩やかな勾配で歩きやすいほかに、多彩な植物が魅力。そんなことで、石巻市は1977(昭和52)年に山の中腹に「市民の森」をオープン。今回の「被災地湊地区散策」の延長として、牧山市民の森に立ち寄ってみた。

市民の森は、広さがざっと61ha。2つの駐車場がある。まず「エントランス広場」の第1駐車場へ。そこには「市章」をかたどった植栽が施されていた。周囲は新緑というよりは深緑に覆われていた。案内板によれば、そこから「ささんかの道」あるいは「あじさいの道」に通じるとあるが、「アジサイが咲く6月下旬に来てみよう」と、車で次の駐車場に向かった。

第2駐車場からは「冒険広場」に向け、歩いた。約15分間、散策路は空気がうまかった。木漏れ日が優しく木々を照らし新緑がより美しく見えた。大震災後しばらく休園中だった市民の森は2年前、アスレチック設備をリニューアルして再開した。今回行ったら過去に見たこともない遊具がそろっていた。

いずれも子どもたちが喜びそうな遊具だったが、気になったのは高さ14mという展望台。実は登ってみて少々がっかり。天気がいいのに視界が悪い。樹木の背丈が伸びすぎ、展望視野を狭めていた。大門崎の石碑「日本百景石巻風景」付近の場所からも樹木が視界を妨げていたが、それと同じ。残念だった。

牧山を下り国道398号線に出たら、山際の方に中層ビル型の災害復興住宅が2棟建っていた。そこは、旧石巻赤十字病院があった場所。隣には民間の介護老人保健施設もあり、既存の施設では県営住宅も建つ。湊地区ではいち早く復興復旧が目に見える場所となっていた。

ちなみに、石巻市の災害公営住宅建設計画は4,000戸。市街地で多い順にみると蛇田地区が1000戸、中心部610戸、釡・大街道500戸、渡波地区490戸、そして湊地区450戸となっている。



新緑でしょうか、深緑と呼べばいいのでしょうか。やがて「万緑」の季節に。市民の森の「エントランス広場」。左奥に「市章」の植栽も。



木漏れ日の林。木々が美しい。



新しい遊具がいっぱい。子どもたちに喜ばれそうだ。



高さ14メートルの展望台。




展望台から市街地を望むが、少々がっかり。樹木が伸びすぎ、視界を遮っていた。



かつて石巻赤十字病院があった場所に災害公営住宅が建つ。




2016/05/19

2016年5月19日 - 石巻市 湊

石巻市湊小学校には震災後、多くの被災者が生活を共にした。約6か月間の避難生活については「石巻市立湊小学校避難所」のタイトルで、ドキュメンタリー映画や出版物になった。大震災直後に何度か行ったが、届いた物資を被災者が長い行列を作ってリレー運搬する姿など、統制のとれた避難生活の一端を今でも忘れない。

小学校の隣には2つの寺がある。震災直後に小学校の3階か4階から見た墓地内にはおびただしい車が流され、墓石をなぎ倒して止まっていた。道路際の校舎に表示された「津波到達」の表示をみて、大津波が寺の境内を突き抜けるように進んだことがよく分かった。しばらく散乱していた墓石は今、元通りになった。

学校のすぐ隣の臨済宗妙心寺派「慈恩院」は、17世紀中ごろの開基。地域を治めていた笹町但馬守元清(先代まで葛西家臣だったが、元清後伊達家に属する)が母の死(1637=寛永14年)を悼み、菩提のために寺を建てたという。母の法名「慈恩院殿心源受安大師」から寺を命名した。境内にその笹町家にまつわる「たたずの碑」(一般には「倒れ墓」)がある。

牧山にある「栄存神社」ともつながるミステリーな物語で、元清は伊達家の知遇を得た真言密教の高僧・栄存法印を牧山の霊場に招聘して、その法力を頼りに産業振興に力を入れた。ところが、元清の死後の当主・笹町新左衛門重頼は法印人気をねたみ、罪を着せて江の島(女川)へ流罪とした。

栄存は島で非業の死を迎えるまでの3年間、重頼への怒りの矛先を湊方面に向けてのろいの修法を繰り返した。すると、湊方面では何度も大火に見舞われた。重頼は発狂して、妻や息子・彦三郎安頼らを斬殺。「倒れ墓」は父に殺された安頼の墓で、何度建て直しても倒れ、今も倒れたままになっている。栄存ミステリーは、江ノ島にもある。やがて赦免が認められ遺骨は牧山に移り、神社に祭られた。

慈恩院には「長谷平直道」(涌谷の生まれ、仙台藩士、1200石、1869年没)の墓もある。直道は戊辰戦争の末期、榎本武揚に従って函館へ下る途中に乗り遅れて新政府に捕らえられ、雲雀野海岸で21歳の若さで刑死した。木村紀夫著「仙台藩の戊辰戦争」によると「絶世の美少年」だったという。辞世の句は「君のため国のためにと思へども忠は不忠になりにけるかな」

隣の多福院には「吉野先帝御菩提碑」のほか、「石巻造船の祖 中村正右衛門」(市史では庄右衛門)をたたえる石碑と関係碑がある。政宗から「御座船棟梁兼船横目棟梁」を拝命した正右衛門は上中瀬に造船所を設け、彼を慕って集まった船大工と共に千石船を開発、建造した。

また、敵に足元を狙う実践的剣法「柳剛流」をあみ出した岡田左馬輔(伊具郡佐倉村=現在の角田市桜の生まれで1856=安政3年に没す)の墓がある。縁があって多福院門前に道場を構えたといい、多くの門人を育てた。

多福院と慈恩院には数多くの板碑がある。古いものでは鎌倉前期の13世紀後半から南北朝時代、そして室町時代の15世紀末まで。その代表格が後醍醐天皇崩御の報に接し菩提を弔うために建立した菩提碑(1339年)。お堂に安置され、一般には見えないようになっている。


湊小学校。震災時には約半年被災者が生活を共にした。現在は湊第二小学校を統合して元の教育の場に。



「津波の水位はここまで」。その表示の向こう墓地があるが、家屋や車と共に襲った濁流が墓石をなぎ倒した。



何度体直しても倒れるという「倒れ墓」。栄存法印のたたりなのか?災いを恐れて今も倒れたままに。



慈恩院境内の「なでなでおじぞうさん」



石巻造船の父とも言われた中村正右衛門たたえる石碑。



中村正右衛門に関係する板碑群。



多福院と慈恩院には鎌倉時代から室町時代に建てられた板碑がいっぱい。