2016/05/01

2016年5月1日 - 東松島市 野蒜

東松島市野蒜地区に、「北余景」「南余景」「西余景」という地名がある。戦後生まれたのか、いつなのかは不明だが、「余景」の地名は新しい。震災前には仙石線の北側が「北余景」で、南側に「西」と「南」があった。どの地域も比較的新しい住宅地。その大半が更地になっている。

住居が消えたら、野蒜石の採掘跡らしい白に近い灰色ですべすべとした壁面があちこちに目立ち、野蒜石の小高い丘を切り取って住宅地にしたという町の歴史が見えるようになった。それにしても、広大な敷地が「原っぱ」になったものだ。
海岸に近いところに、古い「開拓記念碑」が建っていた。そこは国有地を水田にしたらしいが、大震災前は住居があった。今でも所々で亡くなった人を供養する花が空き地に手向けられている。

野蒜石の始掘は定かでないが、江戸時代と推定される。記録では明治38年に東名運河を利用して塩釜に運び込まれたとある。その後は鉄道での運搬となった。旧国鉄、JR仙石線の前身である「宮城電鉄」(昭和3年11月22日に仙台―石巻間50.5km)が全線開通すると、鉄道によって野蒜駅からやはり東北本線が通る塩釜へと運ばれた。鳴瀬町史によると、昭和43年ころには年産5万5240トンの搬出量であったという。

 野蒜石は野蒜だけでなく、宮戸、小野地区でも採掘されたが、旧鳴瀬町内一帯で採れた石は、全部「野蒜石」と呼んだようだ。第三紀鮮新世(約500万~258万年前)の浮石質凝灰石。雄勝産玄昌石の2億5000万年前と比べれば、はるかに若い石だ。

軽くて加工しやすく、耐火性があることから、古くは「竈(かまど)」に使われていた。風化しやすい欠点もあるので細かい細工には向かなかったが、建物にも多く使われた。石積みの倉庫だったり、門柱や石塀に用いられた。昭和53年の宮城県沖地震以降、生垣や壊れても人身に支障のない造りにするとか、芯の入った崩れにくい構造にする風潮が高まり、野蒜石を塀に使うことはなくなった。

海岸に出た。と言っても、工事の最中で浜辺には近づけない。やや小高い地点から海を望んだら、雄大な景色が飛び込んできた。鳴瀬、吉田の両川河口から宮戸島までの海岸線には、震災前に海水浴客でにぎわった砂浜がきれいに残っていた。

そこではコンクリートの防潮堤が建設されていた。その後方に高盛土の防潮道路が建設され、二重防御で「余景」地区への津波襲来を妨ぐ備えだ。防潮道路ののり面には防潮(風)林にするため、植栽も同時に進められていた。


住宅がなくなり更地になったら、野蒜石採掘跡を示す白に近い灰色の壁面があちことでみられるようになった。



「余景」という住宅地は広大な原っパに。供養の花が手向けられていた。



「開拓記念碑」の石碑。前に構築物は見当たらない。開拓直後のような風景に戻った。



青い空と奥松島を望み、浜辺には砂浜…。そこまではかつての野蒜海岸。コンクリートの壁が造られ、その後方にはのり面に植林と同時に建設の防潮道路(手前、足元)



「砂丘」を思わす野蒜の砂浜。ここで海水浴場が再開されるのはいつか。少なくとも今年は無理。


0 件のコメント:

コメントを投稿