2016/05/10

2016年5月10日 - 東松島市 浜市

鳴瀬川と吉田川が合流する河口の東側に、東松島市浜市地区がある。「幻の野蒜築港」のメーンとなる場所で、震災後何度か訪れたことがあるが、今回は3年ぶりである。ここも石巻湾から大津波の直撃を受け、多くの犠牲者を出した。川の対岸にある野蒜地区が323人の死亡で人口比での死亡率は12.78%に達していたが、浜市地区も11.7%(55人)と、高かった。国道45号線鳴瀬大橋から「標識」(野蒜築港跡 日本初の近代港湾計画の跡)に従って右折、跡地を目指した。

仙石線の踏切を渡ってすぐのところに「野蒜築港跡1.8km」の道しるべがあった。丁寧な案内だ。以前に野蒜築港ファンクラブと市教委が作成したマップも手にしており、感覚としては「すぐに行ける」と思った。しかし、甘かった。

「すぐに行ける」と思ったので、牛網の学習等供用施設で平岡地区センターへ寄り道した。そこに数年前「津波の教え」というタイトルの石碑が建ったことを知っていたので、立ち寄った。石碑には「ここは『大丈夫』ではありません。常に心がけて再び悔いの残らぬように、まずは逃げろ!高台へ。伝えてほしい。未来に生きる人達へ」というメッセージが刻まれていた。

センターは石巻湾から約1.5kmの地点にあり、石碑の上の部分(地上から1.3m)まで津波が押し寄せ、牛網地区でも17人が亡くなっていた。

マップを頼りに築港跡を目指すうえで、第一のポイントは「浜市小学校」。建物はすぐに分かった。何しろ周囲に家がない。ここを襲った津波は「校舎1階と2階の踊り場まで達した」という。児童167人の一人も犠牲者を出さなかった学校として、後に優れた対応が語り継がれている。マニュアルにある「校庭に避難して迎えに来た保護者に引き渡す」を「校舎内で、迎えに来た保護者とともに警報解除まで待機」に改めようとしていた矢先の大震災で、学校は即座に後者を選択した。

ただし、20人は保護者に引き渡したという。結果的に147人の児童と教職員14人のほか避難してきた地域住民など合計405人が校舎内で一夜を共にした。その後、県松島高校へ避難するが、1週間後に保護者とともに帰った20人も無事であることが分かり、児童の一人も犠牲者を出さなかった。浜一小は震災から2年後に小野小と統合した「桜華小」になった。

校舎の玄関前に被災から免れた松がある。その前に石碑が2つ。1つは「緑」。もう1つには「松青々と照るところ/光れすなおに美しく」と、校歌の一節が刻まれていた。

校舎の前は家一つないといっても過言ではない。マップ上には「石上神社」や古い門構えの家、浜市佐野野球場、それから千人堀という水路などが記されているが、実際には見当たらない。行きついたところは北上運河と新鳴瀬川の合流点。運河に架かる浜市橋の向こうが「野蒜築港市街地」なのだが、道がない。「すぐに行ける」が、見当違いのところに来ていた。


国道45号線化からも分かるように標識。「日本初の近代港湾計画の跡」とも記されていた。



仙石線の踏切を渡ったところにも「1.8km」の道しるべ。丁寧な案内で。



野蒜築港ファンクラブが作った「幻の港野蒜築港跡を歩く」マップ。震災前に造られたもので。道路も家もない。



牛網・平岡地区には「津波の教え」の石碑が建つ。



廃校になった浜市小。津波は1階と2階の踊り場まで襲ってきて止まったという。浜市地区全体で55人が亡くなったが、児童の犠牲者は出なかった。避難してきた住民も含め405人が校舎内で一夜を過ごした。時計は2時48分ごろで止まっていた。松は奇跡的に残った。その前に校歌の一節を刻んだ石碑が建っている。



中央の橋は「浜市橋」で、その向こう側に鳴瀬川の河口がある。左側が北上運河で右に折れて新鳴瀬川へ。その入り口付近にレンガの橋台。新鳴瀬川には下の橋」「中の橋」「上の橋」があり、野蒜市街地と結んでいた名残り 。



元の道なのか、新しい道なのか。目印がなくなり、築港跡への道を違えた。



かろうじて残った松。その前では柵をめぐらし防風林の植栽。


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