2016/05/11

2016年5月11日 - 東松島市 浜市

迷った道も着いてしまうと、何のことはない。「方向音痴」なだけだった。東松島市の浜市で1878(明治11)年6月に着工した「野蒜築港」の跡地(野蒜市街地)には、建て替えられたと思われる案内板も、東北初の測候所の跡も、地ならしに使われた石のローラーなどが残っていた。河口を望むように建っていた「野蒜築港跡」の記念碑も鳴瀬川や北上運河の堤防修復に伴って移動したものの、一段と高いところから河口の先に展開した「幻の港」を見下ろすように、設置されていた。

案内板は気仙沼市岩井崎の「龍の松」にも似たような枯れた松の造形物近くに建っていた。その脇には工事で殉じた内務省土木局野蒜出張所長の黒澤敬徳碑があり、隣に地ならしに使われたと思われる石のローラー、それに「(旧鳴瀬)町文化財史跡」の標柱がほぼ横一直線に並んでいた。松と石碑の位置関係は震災前と同じだったが、案内板は移動したか、作り直され隣に設置された感じだ。石のローラーは2基あったが、残り一基は見逃したのか、見当たらなかった。

案内板には1881(明治14)年作成の絵図が示されていた。そこには市街地の中に下水路=悪水吐暗渠(あくすいばきあんきょ)の跡が発見された場所も記されていた。河口から延びる防波堤は石済み。79(同12)年7月に着工し、82(同15)年10月に落成している。記録によると浜市側の東突堤が315m、野蒜側の西突堤は269mで、突堤間隔は91m。落成した2年後の84(同17年)9月に台風で被災し、以後築堤工事は中止となった。

「野蒜市街地」と呼ばれた地区は西に鳴瀬川、南に北上運河、さらに鳴瀬川と運河を結んで開削された新鳴瀬川に囲まれた「三角形の用地」。新鳴瀬川には3本の橋があったが、すでにない。ただし、赤レンガの橋台は大震災で被災はしたものの、かろうじて残っている。それをかさ上げした新しい堤防に取り付け、後世に残すことにしていた。

「野蒜測候所跡」と刻まれた石柱は震災前、赤レンガの左隣にあったが、位置が反対になっていた。土台も異なっており、流されたものを修復したらしい。1881(明治14)年に東北で初めてここに測候所が開設されたが、それも築港絡みだった。

明治政府に協力したオランダの土木技師、ファン・ドールンは、外港も構想に入れたという。予算等で叶わなかったとしても、内港を利用し、2つの運河(北上と東名)を開削することで、北上川河口の石巻や松島、仙台と交易を広げるだけでなく、北上川を利用して岩手、鳴瀬川を通じて山形、秋田、阿武隈川から福島県へと結ぶ広範な交易拠港の夢を膨らませた。しかし、幻に終わった。いっとき、光が差した「東北振興」も、その後の歴史で知る通りとなった。

「野蒜築港跡」の記念碑はかさ上げされた堤防の上に、河口を見下ろすように建った。長崎よりも4年前、横浜より11年前に着工した野蒜。「もし」「たら」「れば」の想像を高揚させる場としては何とも爽快な場所ではないか、と思った。眺めもいい。空が透き通っていれば、牡鹿半島や金華山、そして蔵王や栗駒など奥羽の山々まで見渡せる気がした。


何に見えますか。恐竜が口をあけているいる感じにも。



案内板。説明と、計画図などが記されている。



明治14年に出版された明細絵図。仙台市図書館所蔵。



石柱と「石のローラー」、黒澤氏の功徳碑、案内板が横一列に並んで建つ。



「野蒜築港跡」の記念碑は一段と高い堤防の上から鳴瀬川河口を見下ろすように建つ。左手の砂地になっているところは北上運河。



東北で最初の測候所は野蒜に建った。その跡地。



河口付近の津波の高さは787cmだった。


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