2016/05/19

2016年5月19日 - 石巻市 湊

石巻市湊小学校には震災後、多くの被災者が生活を共にした。約6か月間の避難生活については「石巻市立湊小学校避難所」のタイトルで、ドキュメンタリー映画や出版物になった。大震災直後に何度か行ったが、届いた物資を被災者が長い行列を作ってリレー運搬する姿など、統制のとれた避難生活の一端を今でも忘れない。

小学校の隣には2つの寺がある。震災直後に小学校の3階か4階から見た墓地内にはおびただしい車が流され、墓石をなぎ倒して止まっていた。道路際の校舎に表示された「津波到達」の表示をみて、大津波が寺の境内を突き抜けるように進んだことがよく分かった。しばらく散乱していた墓石は今、元通りになった。

学校のすぐ隣の臨済宗妙心寺派「慈恩院」は、17世紀中ごろの開基。地域を治めていた笹町但馬守元清(先代まで葛西家臣だったが、元清後伊達家に属する)が母の死(1637=寛永14年)を悼み、菩提のために寺を建てたという。母の法名「慈恩院殿心源受安大師」から寺を命名した。境内にその笹町家にまつわる「たたずの碑」(一般には「倒れ墓」)がある。

牧山にある「栄存神社」ともつながるミステリーな物語で、元清は伊達家の知遇を得た真言密教の高僧・栄存法印を牧山の霊場に招聘して、その法力を頼りに産業振興に力を入れた。ところが、元清の死後の当主・笹町新左衛門重頼は法印人気をねたみ、罪を着せて江の島(女川)へ流罪とした。

栄存は島で非業の死を迎えるまでの3年間、重頼への怒りの矛先を湊方面に向けてのろいの修法を繰り返した。すると、湊方面では何度も大火に見舞われた。重頼は発狂して、妻や息子・彦三郎安頼らを斬殺。「倒れ墓」は父に殺された安頼の墓で、何度建て直しても倒れ、今も倒れたままになっている。栄存ミステリーは、江ノ島にもある。やがて赦免が認められ遺骨は牧山に移り、神社に祭られた。

慈恩院には「長谷平直道」(涌谷の生まれ、仙台藩士、1200石、1869年没)の墓もある。直道は戊辰戦争の末期、榎本武揚に従って函館へ下る途中に乗り遅れて新政府に捕らえられ、雲雀野海岸で21歳の若さで刑死した。木村紀夫著「仙台藩の戊辰戦争」によると「絶世の美少年」だったという。辞世の句は「君のため国のためにと思へども忠は不忠になりにけるかな」

隣の多福院には「吉野先帝御菩提碑」のほか、「石巻造船の祖 中村正右衛門」(市史では庄右衛門)をたたえる石碑と関係碑がある。政宗から「御座船棟梁兼船横目棟梁」を拝命した正右衛門は上中瀬に造船所を設け、彼を慕って集まった船大工と共に千石船を開発、建造した。

また、敵に足元を狙う実践的剣法「柳剛流」をあみ出した岡田左馬輔(伊具郡佐倉村=現在の角田市桜の生まれで1856=安政3年に没す)の墓がある。縁があって多福院門前に道場を構えたといい、多くの門人を育てた。

多福院と慈恩院には数多くの板碑がある。古いものでは鎌倉前期の13世紀後半から南北朝時代、そして室町時代の15世紀末まで。その代表格が後醍醐天皇崩御の報に接し菩提を弔うために建立した菩提碑(1339年)。お堂に安置され、一般には見えないようになっている。


湊小学校。震災時には約半年被災者が生活を共にした。現在は湊第二小学校を統合して元の教育の場に。



「津波の水位はここまで」。その表示の向こう墓地があるが、家屋や車と共に襲った濁流が墓石をなぎ倒した。



何度体直しても倒れるという「倒れ墓」。栄存法印のたたりなのか?災いを恐れて今も倒れたままに。



慈恩院境内の「なでなでおじぞうさん」



石巻造船の父とも言われた中村正右衛門たたえる石碑。



中村正右衛門に関係する板碑群。



多福院と慈恩院には鎌倉時代から室町時代に建てられた板碑がいっぱい。


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