2016/05/08

2016年5月8日 - 東松島市 宮戸

東松島市宮戸は、松島湾の東端にある島だが、野蒜とは50mほどの「松ケ島橋」で結ばれている。大震災ではこの橋が崩れ、一時宮戸地域は孤立した。津波は石巻湾に面した室浜、大浜、月浜で10mを超し、浜辺の家々をなぎ倒す壊滅的な被害を与え、松島湾に位置する里浜は軽微だった。記録によれば5人が死亡している。

震災当時、地域住民など900人が避難し、約2か月間、避難所になったという旧宮戸小学校に立ち寄ってみた。今春、野蒜小と統合し、宮野森小学校となり、子どもたちは仮校舎(旧野蒜小)に通っているため、校舎は授業に使っていない。ただし、校庭には20数戸の仮設住宅がそのままの状態。校地内に「閉校記念碑」が建ち、校歌が刻まれていた。

「よせくる波をはねかえし/嵯峨のいわおは動かない/わたしたちもあのように/強いからだをきたえよう」

すごく素朴な歌詞だ。大震災後、復興プロジェクトを立ち上げ、「明日の宮戸の子どもたちのために」とさまざまな活動を展開したことを新聞で知っている。ブータン王国のある地域との国際交流も行ってきた。新しい宮野森小では、歌手の加藤登紀子さんが作った校歌を歌っている。

学校のすぐ近くに「観音寺」という寺がある。そこには「日本最初の世界一周者の墓碑」があり、「儀兵衛・多十郎(太十郎かも)の碑」が建つ。碑文には「1793(寛政5)年、藩米や用材を積んで江戸に向け石巻を出港した若宮丸(乗組員16人)は大シケに遭遇し、北北東に流されること数箇月、オンデレッケ島(アリューシャン列島)に漂着した。その中に室浜出身の儀兵衛、多十郎とほかに、寒風沢(塩釜)の二人(津太夫と左平)もいた。(中略)異国の地で病死した者や帰化した者を除く四人が、ロシアの軍艦ナジェター号に乗り、西回りの大航海1804(文化元)年長崎に帰国した。奇しくもこれが日本最初の世界一周者になったのである」と記されている。

若宮丸乗組員はアリューシャン列島から、オホーツク、イルクーツクなど8年有余年を費やし首都ペテルブルクへ。碑文には「この間異国での生活、極寒のシベリヤ横断等数々の苦労に耐えしのんできた」とある。ロシアは、対日貿易を希望し、その手段として漂流民の返還を計画したが、失敗に終わる。特使として派遣されたニコライ・レザノフは幕府の拒否に武力による通商開始も求めるなど強硬だったという。

帰国した4人の乗組員は仙台藩の取り調べを受け、そこで語った異国での生活は「環海異聞」にまとめられている。また、当初の乗組員の中には石巻出身の「善六」もいた。彼は、レザノフの通訳を務め、共に協力して「日露辞典」も作成している。船内抗争のあおりを受け、途中下船している。


島を結ぶ「松ケ島橋」。写真の左方向で新しい橋づくりが進んでいる。



校庭にはまだ応急仮設住宅が建っている旧宮戸小。震災直後には900人もの地域住民が避難してきた。



閉校記念碑には校歌が刻まれていた。



学校のすぐ近くにある「観音寺」山門をくぐって左手に若宮丸乗組員の墓碑がある。



「日本最初の世界一周者の墓碑」が建つ。


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