2016/06/30

被災地からのミニ報告86 - 石巻市門脇、大街道 | 2016年6月30日

一般的に「門脇」は、どの範囲を示すのだろうか。焼け野原のようになった門脇町1~5丁目、それと南浜町1~4丁目が含まれることは分かる。それに、「釡・大街道」を加えて「門脇」という。では「釡・大街道」はどの範囲なのか、一般には分かりにくい。いずれにしても、その門脇で1,000人近い人が大震災で犠牲になったことだけは、きちんと心にとどめておきたいものだ。

 「釡・大街道」地区には「釡小学校」(昭和21年3月門脇小から独立開校)と「大街道小学校」(昭和55年、釡小から聞知し開校)の2つの小学校がある。ただ、学区は入り交じっており、両小学校学区をもって「釡・大街道」のすべてを網羅しているとは言い難い。

全体の面積は分からないが、東は通称「パルプ角」の五差路から西は東松島市の境となる定川河口まで。北は北上運河を越えて「字蛇田」までで、南は工業港。青葉神社や青葉中のある地域も、「釡・大街道」の一部といってもいい。「仙台藩士牡鹿原開墾記念碑」が青葉神社に建っているのも、同地域であることを物語っている。
 
 広大なその区域はかつて荒れた地だった。大街道小の校歌2番には「牡鹿原(おしかがはら)の昔より/町を拓いた人たちを/思えば勇気がわいてくる/(後略)」

とあるように、多くの人々が開墾に従事し、人が住めるまちにした。それが士族授産事業として1880(明治13)年から始まった大街道開拓である。

 翌年から本格的な開墾事業に入った授産事業の発案者で現場監督は、戊辰戦争で目覚ましい活躍を発揮した細谷十太夫。彼は戊辰戦争では衝撃隊を組織し官軍と戦ったが、いつも黒装束に身を包んでいたことから「鴉(からす)組」とも呼ばれていた。隊旗は「3本足のカラス」で、毛利コレクションに残っている。

 青葉神社境内にある記念碑は、大正9年に建った。文頭には次のような文面が刻まれていた。「仙台の東12里(役8キロ)のところに大きな道のような土地がある。広々とした平地で、まるで砥石のようだ。松の老木が鬱蒼と生い茂り、石巻まで松林が続いている。土地の人々は大街道と呼んでいる。地勢は平坦で肥沃で、穀物、野菜、桑などの生育が非常にいい。特に桃や梨の栽培が最も盛んである。かつて、牡鹿原とか牡鹿沼などと呼ばれ、低湿地帯であったことは誰が知ろう」と。

 開墾は明治30年ごろまで続き、約330haに仙台藩士43人が入植し、「粗末な小屋で雨露をしのぎ、生い茂る蒲を刈り、土砂を運んで溝渠を掘り、あるいは堤防を築き、低地を埋めて高低差を無くして田圃にするなど筆舌に尽くし難い困難もあった」と、碑文に記されている。

 このため脱落者も多く、開墾しては荒れ地に逆戻りという事態にも陥った。そんなとき、豪商、戸塚貞輔という人物が多額を寄付してバックアップした。記念碑がある青葉神社は、開拓の最中に祠を建てて藩祖・貞山公(政宗)の霊を祀り、毎年祭礼を開いて「開墾成就」を祈念したという。

碑文の最後には

「昔日の湿地/今は田圃となる/桃やまた梨/この地に最も適す/業を経営して/百余戸となる/誰この地を開拓するや/それは父であり先祖である/子よ孫よ/父祖の辛苦を忘れるなかれ/父祖の暮らしを思い/克苦努力すべし」

と刻まれていた。

細谷は大街道開拓後に北海道へ渡り、開拓の指導に従事した後、再び大街道にやってきて、1907(明治40)年に死去。「烏仙居士」の名で「弓矢とるむかしの身にはひきかへて 牡鹿の原を引き去りにける」と辞世の句を詠んでいる。


山の手から仙台方面へ。十字路の標識だが、実際は五差路の「パルプ角」。



「パルプ角」を直進すると国道398号線の大街道。



大街道小の校歌には「牡鹿原(おしかがはら)」という昔の地名が出てくる。



開墾事業の成就も祈願し建てられた青葉神社。



開墾事業が終わって20年余が過ぎた大正9年に、記念碑が建った(青葉神社内)。






開墾を発案指揮した細谷十太夫。

2016/06/29

2016年6月29日 - 東松島市

東松島市郷土史友の会(多田龍吉会長)の総会兼講演会が26日、同市小野市民センターで行われた。昨年の講演会では私が講師に招かれ、「郷土の偉人 大槻俊斎の偉業」というタイトルで話したこともあり、会のメンバーとのつながりを深めていくためにも、講演を覗きに行った。

 今年の講演会のテーマは「野蒜築港の時代~地域住民の物語」で、仙台市在住の地域社会史研究者(民俗学)の西脇千瀬さん。大震災後の2012年「幻の野蒜築港 明治初頭東北開発の夢」(藤原書店)を出し、13年から「奥松島プロジェクト」の代表として活動。旧鳴瀬町域の地域誌「奥松島物語」を創刊し、これまでに3号まで出している。

 西脇さんの講演は、明治政府の築港という大事業をどう見ていたか。「官」ではなく「民」。つまり世論。あるいは世相。どんな暮らしをしていたころの大事業だったのかを、当時の日刊紙を丹念に読み、関連記事を拾い上げ検証している。その一部を紹介すると次のような内容である。

 明治になって職を失った士族の中には身内の野辺送りを借金して、やっと行えたという時代に野蒜築港のニュースが飛び込んできた。仙台日日新聞は明治13年11月10日、「野蒜の築港は波止場を築造し、東は北上川へ西は松島湾へと運河を通し、更に阿武隈川に連絡する規模であり、その費用は100万円という巨大なものである。工事が成功した暁には日ごとに勢いは盛んになり、野蒜が東北五州の商業の中心地になり、東北五州の古くさい状態が一掃されることが期待される」と持ち上げていた。

 運河ができての功罪も報じられていた。蛇田村高屋敷では「溝渠の悪水が田を浸すことがなくなり、収穫が伸びた」とある半面、東名浜では「水不足で植え付けが不能に」と影響が出ていた。

 明治15年の完成式典はてんやわんやだったらしい。野蒜市街地の戸数は50数戸。そこに来賓など関係者が200人。宿舎の手配などは大変だった。それに「参観人」が多数。「村の消防組と野宿した」とある。餅まきがあったが、「そこに見物人が群集する様子は、さながら蒼蠅が臭気を察して群集するかのようである」と報じていた。

 東松島市郷土史友の会は、会員の多くが大震災の被災者でありながら、活動を継続している。昨年は「大槻俊斎」(赤井生まれ、1804~1862)のほかに、元石巻市の阿部和夫教育長を講師に招き「郷土の偉人・富田鐡之助」(小野生まれ、1835~1916)の講演会を開いている。さらに「一関市と東松島市の歴史的繋がりをたどる」というタイトルで史跡巡りも行っている。

大槻俊斎は幕末の江戸の蘭方医。神田・お玉が池に種痘所を作り、初代頭取。天然痘の予防と治癒に努めた。そこはやがて西洋医学所から東京大学医学部へと続く。富田鐡之助は外交官から日銀総裁、東京府知事などを歴任した人物である。史跡巡りでは一関博物館で「葛西氏の興亡」を見学したほか、東松島市牛網出身の和算家、熱海又治と一関の関係などを学んできたという。


野蒜築港についての講演会。



築港計画には新市街地や運河も。



郷土史友の会が配った資料。



昨年の講演テーマだった大槻俊斎の銅像と富田鐡之助の写真。



2016/06/28

2016年6月28日- 石巻市 牧山

「牧山アヤメ祭り・夏越しの大祓い(なごしのおおはらい)」のポスターを見て、石巻市の牧山・零羊崎神社に出向いた。牧山は5月以来だが、アヤメ祭りは東日本大震災前に行ったきりなので、6年ぶりである。鮮やかに咲き誇る花菖蒲苑内では「生田流筝曲筝貴会・小野こう子社中」が、美しい琴の音を奏で、風情豊かなアヤメ観賞を演出していた。

 花菖蒲苑は「神苑」とも呼ばれ、アヤメ以外にもカタクリの花、シダレザクラ、フジ、ツツジ、サツキと順に花を咲かせ、梅雨の最中にアヤメが満開となる。この間に、「茶摘み」も行われ、秋には紅葉も楽しめる。あらためて、「牧山は植物の宝庫」と知った。ハナショウブとも言われるアヤメは、広さ50アールの斜面に3000株が咲き誇っている。色も種類もいろいろで、「250種にも及ぶ」という。

 アヤメ祭りは3日までだが、日曜日の26日には琴の演奏があった。茶畑にちなんだ「茶摘み」などの童謡から、「川の流れのように」「上を向いて歩こう」など歌謡曲や、ポップスまで幅広い曲を演奏していた。

 「夏越しの大祓い」は、「茅の輪」をくぐり無病息災や家内安全を願うもの。霊羊崎神社本殿の前に「茅の輪」が設けられ、そこを「左回り」「右回り」「左回り」と「8の字」を描くように3度くぐり抜けるとご利益があるそうだ。その際、「水無月(みなつき)のは夏越しの祓いする人は、千年(ちとせ)の命のぶというなり」という古歌を唱えるのが、きまり。1日まで、行われるという。

 牧山は「魔鬼山」だという。栄存神社の近くに「魔鬼山寺跡」という案内標識があったと記憶しているが、今回も探しかねた。ここにも征夷大将軍・坂上田村麿の伝説がある。田村麿は、蝦夷(えみし)頭領の妻・魔鬼女(まぎめ)を征伐し、供養と東北安寧を祈願し寺を建てた。真実のほどは知らないが、頭領とは「大竹(嶽)丸」。登米や栗原にも田村麿と大竹丸の逸話は多く、大崎市鳴子温泉の鬼首は、大竹丸の首を刎ねたところと言われている。妻は最後まで抵抗し、牧山で果てた。


「アヤメ」



広い花菖蒲苑。



色とりどりの花が咲く。



筝曲の小野こう子社中の演奏会。



茅の輪くぐる「夏越しの大祓いも行われている。


2016/06/11

2016年6月11日 - 石巻市 中央

石巻市の「仲町」は、中心市街地の中でも北上川に近い場所だけに交流の拠点でもあった。昭和40年代まで周辺の旅館は、金華山参拝団の宿泊地としてにぎわったし、河岸に面したかつての千葉甚や福島屋は夏の川開き祭りでは、数カ月前の予約でないと泊まれなかった。有名人の宿泊も多く、石巻で数回演奏の指揮を執った小澤征爾は福島屋がお気に入りだったという話も聞いた。

 大震災で被災した商店等の建物が撤去され、更地が広がった地域だが、市と関係団体が練り上げてきた石巻市中心市街地活性化基本計画(今年3月15日に変更認定)では、目指す「まちの姿」を「彩り豊かに食と歴史が薫る川辺のまち」として、整備しようとしている。仲町界隈と中瀬は「川沿いの拠点」として、生鮮マーケットや観光交流施設、交通広場などを設ける「かわまち交流拠点整備」の計画を描いている。それに欠かせない新西・新東内海橋の建設を急いでいる。

 橋通りと交差する角に旧四倉薬局があったが、今は更地。その周辺の敷地も含めた1760㎡を所得した石巻商工会議所は今年秋、新会議所会館建設に踏み切ることになった。鉄骨3階建て延べ1790㎡の会館にはテナントも入るという。現在の会議所(立町1丁目)は昭和8年の市街図では「七十七銀行石巻支店」になっていた場所。

自身が記者駆け出しのころ、床が板張りの旧銀行を活用した会議所に取材に出掛け、その中で「ミス川開きコンテスト審査」も行われた。現在の建物は同45年に建設され、築45年たつという。


「かわまち交流拠点整備事業」で生鮮マーケットや観光交流施設等が経過宇されている地域



石巻商工会議所が建設される敷地



東日本大震災直後の橋通りと仲町の交差付近



中心市街地活性化基本計額の一部「川沿い拠点」という字句の左側にある建物マークに生鮮マーケットなどが計画されている




市制施行直後の昭和8年の石巻市市街図(一部)


2016/06/09

2016年6月9日 - 石巻市 中央

石巻市の「仲町」を歩くと、大震災の津波で被災した建物を取り壊した後の更地があちこちに点在している。再開発等の計画があり、やがては数階建ての住宅が建つらしいが、あまりに多い更地に「かつて何があったんだっけ」と記憶が途切れもがちになってしまいそうだ。

 「仲町」とは広小路から住吉公園入り口付近までを言う。街の中がにぎわっていた今から30年前の昭和50年ごろ、仲町には「丸光デパート」や宮城交通バスの営業所があり、活気があった。ほかに石巻信用金庫や石巻商工信用組合の本店、北日本相互銀行石巻支店があって、人も車も混雑していたし、福島屋、千葉甚,阿部新などの旅館も人の往来を増幅していた。さらに、造り酒屋の「星彌」「三本木屋酒造店」のほか海産物の「今野屋」、日用品雑貨の卸業「鈴徳」があった。

 大震災前に「松栄石巻パーキングビル」「三陸の味処 浜長」があった場所は、中でも広い敷地が更地になっていた。ここはかつて石巻花柳界の中心だった。「浜長」の脇を通る路地には芸者さんを抱える「置き屋」があったし、徳田秋声の「縮図」に出てくる「銀子」ゆかりの待合の「千登里」もあった。昭和60年代初めごろに「千登里」は解体されたが、同業他社の記者と会食したこともあったし、中を案内された記憶がある。

 近くに石巻市教育委員会と石巻商店会が連名で作った案内板が建っていたが、今回見つからなかった。津波で流されたのかどうか分からないが、記録によればそれには「縮図のおもかげ」というタイトルで次のように記されていた。

「<倉持はそう言って出て行ったが、銀子はちょっと顔を直し、子供に留守を頼んで家を出たが、そこは河に近い日和山の裾にある料亭で、四五町もある海沿いの道を車で通うのであった。>  自然主義文学の最高峰徳田秋声著「縮図」の一節である。  

仲町(中央3丁目)の「中大黒」抱妓銀子と近所の豪農の長男倉持との逢引の場「アルプス温泉」(門脇3丁目)の跡には、庭石一個のみ。「中大黒」の玄関と待合「千登里」は昔のままの姿を残している」(昭和58年12月建立)

「縮図」は徳田が71歳のときの作品。昭和16年6月から9月まで都新聞に連載。作中で、銀子は倉持が家の反対で別の女性と結婚したため、漁船の上から身を投げ出そうとするものの死にきれず石巻を去るが、その時点で軍当局の命令により、連載がストップとなった。

銀子のモデルは、群馬県生まれの小林政子。秋声年譜によれば彼が61歳のころ、27歳ごろの政子と知り合っている。その政子が石巻に住んだのは10代の後半。であれば、「縮図」の舞台は大正11~12年ごろか。作品の中で当時のミナト石巻や花柳界は、大変活気があった。

「寿屋」という酒類小売店の脇が広々としている。かつて「石巻商工信用組合本店」や「ダックシティ丸光石巻店」があった場所。「縮図」の舞台である大正の終りごろ、その周辺には石巻日日新聞、石巻警察署があった。


どこがどこだか分かりますが。「松栄パーキングビル」や「浜長」「たかはし果物店」などがあった場所。小さな路地には芸者さんの置屋も



「浜長」脇の路地。「中大黒」の置き屋があり、その向こうに「千登里」もありましたが、中ごろに昭和50年代の記者仲間が集まったスナックも



柵で囲まれた辺りに徳田秋声の「縮図」に出てくる銀子ゆかりの待合「千登里」があった



こちらの更地には「商工信用組合本店」や旧丸光も



大正14年ごろの「石巻町街図」の一部。丸光のところには石巻警察署、商工信用付近には石巻日日新聞社があった。



昭和50年代初めごろの仲町の丸光前(「グラビア石巻」=石巻市中里の亀山幸一著より)


2016/06/07

2016年6月7日 - 石巻市 中央

石巻市の永巌寺参道は東日本大震災で数mの津波の通り道になった。そこは市役所前大通り商店街と坂下通りを結ぶ道で、かつて「朝顔市」が開かれていた。昭和40年代から約30年間、7月の初めになると東京浅草の入谷鬼子母神で行う朝顔市から仕入れたという鉢植えの朝顔を参道いっぱいに並べて販売、市役所が日和が丘にあったころだけに、市職員や市役所に用事のある人などが立ち寄って、季節の花を買い求めていた。

 参道の市役所通り側は土地区画整理事業で街並みが変わった。こぎれいになった店がオープンし、参道のすぐ隣の永巌寺敷地内には災害復興住宅が建った。脇に石ノ森章太郎の自画像をモチーフにした石像が安置されている。「萬画神社」である。説明板には「人類の共通言語のマンガで世界平和に貢献し、子どもたちに夢と希望を与える神社です。そして、萬画は満願にも通じ、願いが満たされることを意味しています」と記され、ご神体は「萬画章命(よろずえがくあきらのみこと)」と定め、崇めている。市民団体が2000年建てたもので、中瀬の石ノ森萬画館建設(2001年7月オープン)の運動を支えた。

 石巻にかつて地元の常設映画館が5館あった。東日本大震災で中瀬の岡田劇場が壊滅的な被災を受け、現在残っているのは「日活パール」だけ。5つの映画館が健在だった昭和30年代半ばには「テアトル東宝」(中央3丁目)が洋画専門だが、岡田劇場(中瀬)が東映、「東北館」(中央2丁目)が松竹、「文化劇場」(中央1丁目)が大映と東宝、「日活パール」(坂下)が日活と、4館が邦画製作5社の配給を受けていた。

 日活パールは永巌寺と目と鼻の先。かつては石原裕次郎や小林旭のアクション映画スター、吉永小百合などの青春映画スターが主演の上映になると、長い行列ができたという。今も一人で奮戦の80歳を優に超えた経営者の清野太兵衛さんは「正月第1週に『いつでも夢を』と『高校3年生』の2本立てを上映した昭和38年ころがピークだったかな。券は売るだけ売って、入りきれない人は外に延々と並んでもらった」と話す。

 斜陽の時代に入ってから、製作会社の日活自身が「ポルノ路線」へ。「日活パール」も同じように成人映画専門館になった。大震災前まで館内に2つの上映室があった。津波は待合ロビーの天井にまで達し、中の座席などは使用不能の被害を受けた。しかし、その年の6月に大きい方の「第一シネマ」を閉鎖し、座席数50席の「第二シネマ」だけで営業を再開し、今日に至っている。

 映画館が建つその場所は幕末のころ、仙台藩の大番士粟野杢右衛門に家だったという。1852(嘉永5)年3月6日、同宅に長州の吉田松陰が友人とともに訪れ、宿泊している。「吉田松陰の宿所跡」の案内板が映画館の裏手にあり、今に伝えている。それによれは、「親友の那珂通高(南部藩士)が寄寓先の粟野杢右衛門の案内で日和山からの眺望を楽しみ、同行の宮部鼎蔵(吉田、那珂と共に佐久間象山に師事)と共に粟野邸に一泊した」とある。

 松陰は日和山からの印象を「東北遊日記」に、要約すると次のように書いている。「石巻は400戸、蛇田は60戸、門脇は180戸。東岸を湊と言って400戸あり、港には船7~80隻停泊している。湊や住吉には南部、一関の米蔵があり、道路は四方八方に広がっている」。幕末の石巻も、芭蕉が訪れたころ(1689年)同様ににぎわっていたことを記していた。


永巌寺参道。かつて、この場所で「朝顔市」が開かれ、にぎわった



「萬画神社。顔は地球を表し右手に持つペンはあらゆる邪気を払う力があると信じられている



今も元気で営業を続ける映画館。成人映画専門店では県内唯一かも



津波は天井のところまで襲った



映画館があった場所には幕末に勤王の志士、吉田松陰が泊まっている


2016/06/06

2016年6月6日 - 石巻市 中央

石巻市永巌寺の墓地内を散策して気付いたのは「災難」の供養碑。川村孫兵衛重吉の北上川開削で「海に扉を開いたまち」になった石巻市だけに、海難事故は宿命的だった。特に、安全な装備が遅れていた藩政時代はまさに「板子一枚下は地獄」と言われるように、漁師の仕事は命懸け。それが船乗り稼業であった。

永巌寺の千石船の供養碑は数基あるらしいが、船名が明らかな供養碑は本堂左手の墓地入り口付近にある。1995(平成7)年に本堂新築の際に裏山の斜面に突き刺さった状態で発見されたという。「法海精霊等」と刻まれ、1823(文政11)年に遭難した龍王丸と正秀丸の乗組員のために建てられた。両船が地元船かどうかは不明。ほかに1858(安政5)年3月3日の「春嵐」で遭難した宝喜丸の供養碑もあるが、確認はできなかった。

「年表に見る石巻の歴史」(千葉賢一著)によれば、藩政時代の海難事故による千石船犠牲者の供養碑は14基あるといい、うち船名が分かるのは6基だけ。永巌寺のほかには門脇の西光寺などにある。「いしのまき散歩」(二佐山連=にさやま・むらじ=二宮以義、佐久間昌彦、山内豊の共著)の石巻地方海難記録(1708~1956年)によれば、この間に61件の海難事故が起き、犠牲者は1069人に及んでいた。

「いしのまき散歩」に記録された一番新し海難事故は1956(昭和31)年10月31日に北上川の河口で座礁した宮崎県のカツオ船「瓢栄丸」の事故。乗組員37人が犠牲となった。河口に堆積の土砂が原因で、河口港の限界が表面化した事故ともなった。瓢栄丸の供養碑は門脇の称法寺にある。永巌寺には1978(昭和43)年11月17日に北海道から石巻工業港へ向かっていた鉱石運搬船「第18宝栄丸」が消息を絶ち、船長ら9人が犠牲になった遭難事故による供養碑も建つ。

墓地内には天保年間に建てられた「有無両縁三界萬霊塔」がある。市史の「石巻の歴史」によると、永巌寺とか住吉の広済寺、渡波の宮殿寺には境内に施穴、千人溜があって、餓死した人を埋葬したという。「飢饉による犠牲者の数が落ち着く天保8年10月ごろの時点でおよそ1万人を越える犠牲者になった。人口に対する死亡率では最も少ない住吉で24.2%で、真野村の場合930人中600人が死んだ」と記されている。周辺の集落を除いた石巻で1万人だから、東日本大震災を上回る犠牲者を出していた。

境内には明治10年コレラ流行に伴う供養塔もみつけた。さらに、戊辰戦争で「鴉組」を組織し、新政府軍と奮戦した細谷十太夫に功績碑もカメラに収めることができたが、鴇田英太郎の墓は見つけることができなかった。彼は中央文壇で期待されていた石巻市出身の作家で、昭和4年に胃がんのため31歳の若さで亡くなった。墓石には「そのとおり ハイ、オッツケあなたもこの通り」という辞世の句が刻まれているが、次には探したい。

どこもそうだが、寺の前を通るとき山門近くにある貼り紙を見るのを楽しみにしている。永巌寺には「安らぎの法門」として、数字が入ることわざを書いていた。それぞれ何字かが抜けておりクイズ風。足を止めて箱の中の数字を考えたが、ボケ防止にはいい頭の体操ともなった。


1823年に遭難した千石船遭難犠牲者の供養碑には「法海精霊等」と刻まれている




昭和43年委北海道から石巻に向かう途中に消息を絶った船の供養塔



天保年間には石巻市で1万人の飢饉餓死者を出したが、その供養碑



幕末から明治にかけてコレラが流行し、大勢の病死者を出した



石母田初代市長と共に細谷十太夫をたたえるの追悼記念碑



箱の中に数字を入れてください


2016/06/04

2016年6月4日 - 石巻市 中央

石巻小学校と目と鼻の先にある「永巌寺」の境内を散策してみた。「2016年5月30日 - 石巻市 日和山 (ミニ報告76)」で日和山の川村孫兵衛重吉の銅像を紹介した際、日和が丘のTさんから「孫兵衛さんは隠れキリシタンでは?」というコメントがあった。そこで、「隠れキリシタンの墓を見たい」と出掛けたのが永巌寺。

 永巌寺の檀家で寺の歴史に詳しい中央1丁目の理容店主、和田さんに案内をいただき、境内を歩いた。真っ先に向かった先は、墓地への登り口に近いところ。へらべったい花崗岩に聖堂の屋根をかたどって掘られており、奇妙な墓石は一目で分かった。

 墓石には法名2つが並んでいる。夫婦ものであろうか、2人は同じ日に死んでいる。右側が妻なのか「三」の下に「為清安妙光禅定尼」とあり、「明暦元年九月十三日」と亡くなった日付を刻んでいる。左側には夫の法名だろうか、「十」の下に「為性岸宗本禅定門」「同年同月」とあった。

 「十」と「三」は合わせるとキリスト受難の「十三」。「仙台領キリシタン秘話」(紫桃正隆著)によれば、「処刑であれば、墓は建てられない。当時の厳しい掟があったはず」と、石巻市のキリシタン研究家の郷土史家、須田信さんの解説を書き留めていた。その後に「しかし、何ともこの墓から受ける感じは異様である。後世の者がほとぼりが醒めた頃、ひそかにこれを建てて先祖の供養をした、とする解釈はどんなものであろうか」としている。

 ほかにもそれらしい墓がいくつもあった。「十」のキリシタンマークの下に「三界唯一心、為月窓道春信男菩提也」と刻まれた墓碑には、「寛文13年正月二十四日、南部孫十郎」とあった。あるいは「卍」印の下に「海室妙黄信女」などを見ることができた。ほかに法名の上に「一」や「天」の付く墓石も見られた。

 「仙台領キリシタン秘話」には、川村孫兵衛にも触れている。「彼はキリシタンであるといわれている」とし、岩手県岩井郡大籠に残る古文書でしきりに原鉄や鉄製品を運んでいること、隠れキリシタンが多いといわれた烱屋(鉄の精錬と加工をする)衆との交流、さらに孫兵衛自身が持つ南蛮伝来の土木技術や高い見識などから、そう信じても不思議でない。

 永巌寺を案内したくれた和田さんも「当時としては高い技術を持った人。今で言うIT技術者。当時その多くはキリスト教布教と一緒に西洋から伝わってきた。孫兵衛さんも、そうだったかも」と話している。孫兵衛の出身は今の山口県萩市。日本にキリスト教を初めて伝えたのはフランシスコ・ザビエル。1549年に山口県で布教活動を始めている。孫兵衛は1575年生まれ。なにがしかの因縁を捨てきれない。

 石巻には藩政時代に「鋳銭場」があった。境内には天保年間に建てられた「小山茂八包房」と記された鋳銭場大吹所棟梁の墓碑もあった。鋳銭場も「たたらを使っていた」。いわば、烱屋衆がいた。北上川沿いには隠れキリシタンの里が目立つ。石巻にも波及?の印象が広がった。



石巻市羽黒町にある永巌寺



同じ日に亡くなった夫婦の墓碑は隠れキリシタンか



鋳銭場棟梁の墓碑(中央)


2016/06/02

2016年6月2日 - 石巻市 中央

石巻小学校の玄関口がある場所(旧市役所方面にある校門側とは反対側)はかつて「八ツ沢」と呼ばれた。地形からの由来だろうと思うが、鰐山丘陵からの多くの沢がこの地点集まっていたという。このため、大雨になると山からの鉄砲水が集中し、周辺はときどき道路が冠水した。学校前の緑地公園内には標柱が建ち「八ツ沢」の地名を今に伝えている。大震災ではやや土盛りした設計の公園だったので大きな被害はなく、市民には「緑の濃い隠れた休息の地」になっている。

 この公園は地名としても語り継ぎたい場所だが、石巻市の歴史的意義も深く、個人的にも忘れられない。市教育委員会が建てた案内板によると「石巻町役場および議事堂旧図書館跡」とあり、1889(明治22)年から1934(昭和9)年までの約45年間、この地に石巻町役場、そして市制施行直後の市役所があった。やがて、そこに市立女子高(現在の桜坂高)の前身である石巻実科女学校、水道事業所(建物は後に図書館)や石巻公民館など公共の建物が次々に建ったとある。

 記者の駆け出し(昭和40年代の初め)のころ、公民館や図書館は毎日のように通う場所だった。その公民館が昭和45年、図書館が48年にそれぞれ現在地に移転新築することで、ワクワクしながらその推移を取材した思い出がある。と同時に跡地活用にも関心を持った。当時は駅と市役所を結ぶにぎわいルートが注目されていたので、「新たな公共施設を」という声もあったが、公園になってほっとしたことを覚えている。

 久しぶりに公園を歩いたら、「金華山」と刻まれた大きな石碑があるのに気付いた。以前にはなかった。いつからそこにあるか分からないが、以前は永巌寺山門の入り口付近にあったはずだ。見ての通り「金華山への道標か」と思われがちだが、実は違う。碑の右下に「右ハ富山六里八丁」とあり、左下には「左ハ日和山五丁」と刻まれていた。

山門近くにあったころに出版された「年表による石巻の歴史」(千葉賢一著)によれば「以前は八沢公園の北側に表面を東に向いて建っていたと考えられる。松島(富山観音)方面への道標だったのではないか」と記されている。結果的に道標が建つ現在地は、天保の時代に建ったころとほぼ同じ位置ということになる。

 かなり読みにくいが、石碑の後ろ側には「身近な材料を使って作れる餅の製法が書かれている」という。天保年間は大飢饉が起こり、石巻だけでも数千人が亡くなっている。それは東日本大震災と変わらない犠牲者。「餅の製法」は約180年前に発しられたメッセージだが、飽食の時代の子どもたちにはどう届くのだろうか。

 公園内には「長衣の女・82」(笹戸千津子作、昭和60年に石巻ロータリークラブ寄贈)がある。そのころ「仙台のように公園にブロンズ像が建つ石巻へ」と機運も高まったが、何となく尻すぼみの感。公園を抜けて歩き出したら石巻小学校の玄関わきに建つ石碑が目に入った。明治時代に創られた「校訓五箇条」を、平成17年に当時の加藤精一校長が復活させ、いまでも子どもたちが集会等で唱和しているという。

 「げんきよくせよ/まじめにせよ/ひとりでせよ/よくこらえよ/しかとおぼえよ」

 会津藩の藩校・明倫館が少年教育で示した「什の掟」には「年長者の言うことに背いてはならぬ」「卑怯な振る舞いをしてはなりませぬ」など7つの戒めの最後に「ならぬものはならぬものです」と念を押しているが、それに通じる言葉のイメージがあり、個人的には好きである。



石巻小学校前にある緑地公園は隠れた「市民憩いの地」。緑が濃い散歩道



石柱には「八ツ沢」。いくつもの沢が合流し、鉄砲水で道路冠水も多かった



公園は明治時代からずっと公共的施設が建っていた。町役場も町の議会もそこに(「牡鹿郡案内誌」より」)




「金華山」と書かれた道標だが、金華山への道しるべではなく、富山観音と日和山への案内。天保年間に建てられ、基金の備えも裏面に。




ロータリークラブが寄贈した少女像



石巻小の「校訓五個条」が刻まれた石碑