2016/06/02

2016年6月2日 - 石巻市 中央

石巻小学校の玄関口がある場所(旧市役所方面にある校門側とは反対側)はかつて「八ツ沢」と呼ばれた。地形からの由来だろうと思うが、鰐山丘陵からの多くの沢がこの地点集まっていたという。このため、大雨になると山からの鉄砲水が集中し、周辺はときどき道路が冠水した。学校前の緑地公園内には標柱が建ち「八ツ沢」の地名を今に伝えている。大震災ではやや土盛りした設計の公園だったので大きな被害はなく、市民には「緑の濃い隠れた休息の地」になっている。

 この公園は地名としても語り継ぎたい場所だが、石巻市の歴史的意義も深く、個人的にも忘れられない。市教育委員会が建てた案内板によると「石巻町役場および議事堂旧図書館跡」とあり、1889(明治22)年から1934(昭和9)年までの約45年間、この地に石巻町役場、そして市制施行直後の市役所があった。やがて、そこに市立女子高(現在の桜坂高)の前身である石巻実科女学校、水道事業所(建物は後に図書館)や石巻公民館など公共の建物が次々に建ったとある。

 記者の駆け出し(昭和40年代の初め)のころ、公民館や図書館は毎日のように通う場所だった。その公民館が昭和45年、図書館が48年にそれぞれ現在地に移転新築することで、ワクワクしながらその推移を取材した思い出がある。と同時に跡地活用にも関心を持った。当時は駅と市役所を結ぶにぎわいルートが注目されていたので、「新たな公共施設を」という声もあったが、公園になってほっとしたことを覚えている。

 久しぶりに公園を歩いたら、「金華山」と刻まれた大きな石碑があるのに気付いた。以前にはなかった。いつからそこにあるか分からないが、以前は永巌寺山門の入り口付近にあったはずだ。見ての通り「金華山への道標か」と思われがちだが、実は違う。碑の右下に「右ハ富山六里八丁」とあり、左下には「左ハ日和山五丁」と刻まれていた。

山門近くにあったころに出版された「年表による石巻の歴史」(千葉賢一著)によれば「以前は八沢公園の北側に表面を東に向いて建っていたと考えられる。松島(富山観音)方面への道標だったのではないか」と記されている。結果的に道標が建つ現在地は、天保の時代に建ったころとほぼ同じ位置ということになる。

 かなり読みにくいが、石碑の後ろ側には「身近な材料を使って作れる餅の製法が書かれている」という。天保年間は大飢饉が起こり、石巻だけでも数千人が亡くなっている。それは東日本大震災と変わらない犠牲者。「餅の製法」は約180年前に発しられたメッセージだが、飽食の時代の子どもたちにはどう届くのだろうか。

 公園内には「長衣の女・82」(笹戸千津子作、昭和60年に石巻ロータリークラブ寄贈)がある。そのころ「仙台のように公園にブロンズ像が建つ石巻へ」と機運も高まったが、何となく尻すぼみの感。公園を抜けて歩き出したら石巻小学校の玄関わきに建つ石碑が目に入った。明治時代に創られた「校訓五箇条」を、平成17年に当時の加藤精一校長が復活させ、いまでも子どもたちが集会等で唱和しているという。

 「げんきよくせよ/まじめにせよ/ひとりでせよ/よくこらえよ/しかとおぼえよ」

 会津藩の藩校・明倫館が少年教育で示した「什の掟」には「年長者の言うことに背いてはならぬ」「卑怯な振る舞いをしてはなりませぬ」など7つの戒めの最後に「ならぬものはならぬものです」と念を押しているが、それに通じる言葉のイメージがあり、個人的には好きである。



石巻小学校前にある緑地公園は隠れた「市民憩いの地」。緑が濃い散歩道



石柱には「八ツ沢」。いくつもの沢が合流し、鉄砲水で道路冠水も多かった



公園は明治時代からずっと公共的施設が建っていた。町役場も町の議会もそこに(「牡鹿郡案内誌」より」)




「金華山」と書かれた道標だが、金華山への道しるべではなく、富山観音と日和山への案内。天保年間に建てられ、基金の備えも裏面に。




ロータリークラブが寄贈した少女像



石巻小の「校訓五個条」が刻まれた石碑


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