2016/06/29

2016年6月29日 - 東松島市

東松島市郷土史友の会(多田龍吉会長)の総会兼講演会が26日、同市小野市民センターで行われた。昨年の講演会では私が講師に招かれ、「郷土の偉人 大槻俊斎の偉業」というタイトルで話したこともあり、会のメンバーとのつながりを深めていくためにも、講演を覗きに行った。

 今年の講演会のテーマは「野蒜築港の時代~地域住民の物語」で、仙台市在住の地域社会史研究者(民俗学)の西脇千瀬さん。大震災後の2012年「幻の野蒜築港 明治初頭東北開発の夢」(藤原書店)を出し、13年から「奥松島プロジェクト」の代表として活動。旧鳴瀬町域の地域誌「奥松島物語」を創刊し、これまでに3号まで出している。

 西脇さんの講演は、明治政府の築港という大事業をどう見ていたか。「官」ではなく「民」。つまり世論。あるいは世相。どんな暮らしをしていたころの大事業だったのかを、当時の日刊紙を丹念に読み、関連記事を拾い上げ検証している。その一部を紹介すると次のような内容である。

 明治になって職を失った士族の中には身内の野辺送りを借金して、やっと行えたという時代に野蒜築港のニュースが飛び込んできた。仙台日日新聞は明治13年11月10日、「野蒜の築港は波止場を築造し、東は北上川へ西は松島湾へと運河を通し、更に阿武隈川に連絡する規模であり、その費用は100万円という巨大なものである。工事が成功した暁には日ごとに勢いは盛んになり、野蒜が東北五州の商業の中心地になり、東北五州の古くさい状態が一掃されることが期待される」と持ち上げていた。

 運河ができての功罪も報じられていた。蛇田村高屋敷では「溝渠の悪水が田を浸すことがなくなり、収穫が伸びた」とある半面、東名浜では「水不足で植え付けが不能に」と影響が出ていた。

 明治15年の完成式典はてんやわんやだったらしい。野蒜市街地の戸数は50数戸。そこに来賓など関係者が200人。宿舎の手配などは大変だった。それに「参観人」が多数。「村の消防組と野宿した」とある。餅まきがあったが、「そこに見物人が群集する様子は、さながら蒼蠅が臭気を察して群集するかのようである」と報じていた。

 東松島市郷土史友の会は、会員の多くが大震災の被災者でありながら、活動を継続している。昨年は「大槻俊斎」(赤井生まれ、1804~1862)のほかに、元石巻市の阿部和夫教育長を講師に招き「郷土の偉人・富田鐡之助」(小野生まれ、1835~1916)の講演会を開いている。さらに「一関市と東松島市の歴史的繋がりをたどる」というタイトルで史跡巡りも行っている。

大槻俊斎は幕末の江戸の蘭方医。神田・お玉が池に種痘所を作り、初代頭取。天然痘の予防と治癒に努めた。そこはやがて西洋医学所から東京大学医学部へと続く。富田鐡之助は外交官から日銀総裁、東京府知事などを歴任した人物である。史跡巡りでは一関博物館で「葛西氏の興亡」を見学したほか、東松島市牛網出身の和算家、熱海又治と一関の関係などを学んできたという。


野蒜築港についての講演会。



築港計画には新市街地や運河も。



郷土史友の会が配った資料。



昨年の講演テーマだった大槻俊斎の銅像と富田鐡之助の写真。



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