2016/06/06

2016年6月6日 - 石巻市 中央

石巻市永巌寺の墓地内を散策して気付いたのは「災難」の供養碑。川村孫兵衛重吉の北上川開削で「海に扉を開いたまち」になった石巻市だけに、海難事故は宿命的だった。特に、安全な装備が遅れていた藩政時代はまさに「板子一枚下は地獄」と言われるように、漁師の仕事は命懸け。それが船乗り稼業であった。

永巌寺の千石船の供養碑は数基あるらしいが、船名が明らかな供養碑は本堂左手の墓地入り口付近にある。1995(平成7)年に本堂新築の際に裏山の斜面に突き刺さった状態で発見されたという。「法海精霊等」と刻まれ、1823(文政11)年に遭難した龍王丸と正秀丸の乗組員のために建てられた。両船が地元船かどうかは不明。ほかに1858(安政5)年3月3日の「春嵐」で遭難した宝喜丸の供養碑もあるが、確認はできなかった。

「年表に見る石巻の歴史」(千葉賢一著)によれば、藩政時代の海難事故による千石船犠牲者の供養碑は14基あるといい、うち船名が分かるのは6基だけ。永巌寺のほかには門脇の西光寺などにある。「いしのまき散歩」(二佐山連=にさやま・むらじ=二宮以義、佐久間昌彦、山内豊の共著)の石巻地方海難記録(1708~1956年)によれば、この間に61件の海難事故が起き、犠牲者は1069人に及んでいた。

「いしのまき散歩」に記録された一番新し海難事故は1956(昭和31)年10月31日に北上川の河口で座礁した宮崎県のカツオ船「瓢栄丸」の事故。乗組員37人が犠牲となった。河口に堆積の土砂が原因で、河口港の限界が表面化した事故ともなった。瓢栄丸の供養碑は門脇の称法寺にある。永巌寺には1978(昭和43)年11月17日に北海道から石巻工業港へ向かっていた鉱石運搬船「第18宝栄丸」が消息を絶ち、船長ら9人が犠牲になった遭難事故による供養碑も建つ。

墓地内には天保年間に建てられた「有無両縁三界萬霊塔」がある。市史の「石巻の歴史」によると、永巌寺とか住吉の広済寺、渡波の宮殿寺には境内に施穴、千人溜があって、餓死した人を埋葬したという。「飢饉による犠牲者の数が落ち着く天保8年10月ごろの時点でおよそ1万人を越える犠牲者になった。人口に対する死亡率では最も少ない住吉で24.2%で、真野村の場合930人中600人が死んだ」と記されている。周辺の集落を除いた石巻で1万人だから、東日本大震災を上回る犠牲者を出していた。

境内には明治10年コレラ流行に伴う供養塔もみつけた。さらに、戊辰戦争で「鴉組」を組織し、新政府軍と奮戦した細谷十太夫に功績碑もカメラに収めることができたが、鴇田英太郎の墓は見つけることができなかった。彼は中央文壇で期待されていた石巻市出身の作家で、昭和4年に胃がんのため31歳の若さで亡くなった。墓石には「そのとおり ハイ、オッツケあなたもこの通り」という辞世の句が刻まれているが、次には探したい。

どこもそうだが、寺の前を通るとき山門近くにある貼り紙を見るのを楽しみにしている。永巌寺には「安らぎの法門」として、数字が入ることわざを書いていた。それぞれ何字かが抜けておりクイズ風。足を止めて箱の中の数字を考えたが、ボケ防止にはいい頭の体操ともなった。


1823年に遭難した千石船遭難犠牲者の供養碑には「法海精霊等」と刻まれている




昭和43年委北海道から石巻に向かう途中に消息を絶った船の供養塔



天保年間には石巻市で1万人の飢饉餓死者を出したが、その供養碑



幕末から明治にかけてコレラが流行し、大勢の病死者を出した



石母田初代市長と共に細谷十太夫をたたえるの追悼記念碑



箱の中に数字を入れてください


0 件のコメント:

コメントを投稿