2016/06/30

被災地からのミニ報告86 - 石巻市門脇、大街道 | 2016年6月30日

一般的に「門脇」は、どの範囲を示すのだろうか。焼け野原のようになった門脇町1~5丁目、それと南浜町1~4丁目が含まれることは分かる。それに、「釡・大街道」を加えて「門脇」という。では「釡・大街道」はどの範囲なのか、一般には分かりにくい。いずれにしても、その門脇で1,000人近い人が大震災で犠牲になったことだけは、きちんと心にとどめておきたいものだ。

 「釡・大街道」地区には「釡小学校」(昭和21年3月門脇小から独立開校)と「大街道小学校」(昭和55年、釡小から聞知し開校)の2つの小学校がある。ただ、学区は入り交じっており、両小学校学区をもって「釡・大街道」のすべてを網羅しているとは言い難い。

全体の面積は分からないが、東は通称「パルプ角」の五差路から西は東松島市の境となる定川河口まで。北は北上運河を越えて「字蛇田」までで、南は工業港。青葉神社や青葉中のある地域も、「釡・大街道」の一部といってもいい。「仙台藩士牡鹿原開墾記念碑」が青葉神社に建っているのも、同地域であることを物語っている。
 
 広大なその区域はかつて荒れた地だった。大街道小の校歌2番には「牡鹿原(おしかがはら)の昔より/町を拓いた人たちを/思えば勇気がわいてくる/(後略)」

とあるように、多くの人々が開墾に従事し、人が住めるまちにした。それが士族授産事業として1880(明治13)年から始まった大街道開拓である。

 翌年から本格的な開墾事業に入った授産事業の発案者で現場監督は、戊辰戦争で目覚ましい活躍を発揮した細谷十太夫。彼は戊辰戦争では衝撃隊を組織し官軍と戦ったが、いつも黒装束に身を包んでいたことから「鴉(からす)組」とも呼ばれていた。隊旗は「3本足のカラス」で、毛利コレクションに残っている。

 青葉神社境内にある記念碑は、大正9年に建った。文頭には次のような文面が刻まれていた。「仙台の東12里(役8キロ)のところに大きな道のような土地がある。広々とした平地で、まるで砥石のようだ。松の老木が鬱蒼と生い茂り、石巻まで松林が続いている。土地の人々は大街道と呼んでいる。地勢は平坦で肥沃で、穀物、野菜、桑などの生育が非常にいい。特に桃や梨の栽培が最も盛んである。かつて、牡鹿原とか牡鹿沼などと呼ばれ、低湿地帯であったことは誰が知ろう」と。

 開墾は明治30年ごろまで続き、約330haに仙台藩士43人が入植し、「粗末な小屋で雨露をしのぎ、生い茂る蒲を刈り、土砂を運んで溝渠を掘り、あるいは堤防を築き、低地を埋めて高低差を無くして田圃にするなど筆舌に尽くし難い困難もあった」と、碑文に記されている。

 このため脱落者も多く、開墾しては荒れ地に逆戻りという事態にも陥った。そんなとき、豪商、戸塚貞輔という人物が多額を寄付してバックアップした。記念碑がある青葉神社は、開拓の最中に祠を建てて藩祖・貞山公(政宗)の霊を祀り、毎年祭礼を開いて「開墾成就」を祈念したという。

碑文の最後には

「昔日の湿地/今は田圃となる/桃やまた梨/この地に最も適す/業を経営して/百余戸となる/誰この地を開拓するや/それは父であり先祖である/子よ孫よ/父祖の辛苦を忘れるなかれ/父祖の暮らしを思い/克苦努力すべし」

と刻まれていた。

細谷は大街道開拓後に北海道へ渡り、開拓の指導に従事した後、再び大街道にやってきて、1907(明治40)年に死去。「烏仙居士」の名で「弓矢とるむかしの身にはひきかへて 牡鹿の原を引き去りにける」と辞世の句を詠んでいる。


山の手から仙台方面へ。十字路の標識だが、実際は五差路の「パルプ角」。



「パルプ角」を直進すると国道398号線の大街道。



大街道小の校歌には「牡鹿原(おしかがはら)」という昔の地名が出てくる。



開墾事業の成就も祈願し建てられた青葉神社。



開墾事業が終わって20年余が過ぎた大正9年に、記念碑が建った(青葉神社内)。






開墾を発案指揮した細谷十太夫。

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