2016/07/09

被災地からのミニ報告90 - 石巻市 釜、大街道 | 2016年7月9日

大震災直後、仙台方面から石巻市街地に入るすべての道路が冠水し、車両は入れなかった。大街道新橋も周辺が陥没し、通行不能となった。5年たって、新しい橋に架け変えられ、国道が走る大街道は元の姿に戻った。沿線には新たにホテルができるなど、震災の爪痕を消している。

 もう一つの「釡・大街道」の顔である石巻工業港も、日本製紙石巻工場の操業再開に好連鎖して多くが元の姿に戻っている。平成27年度の港湾取り扱い貨物量は351万6000トンで、震災前の87%まで回復した。その主なものは木材チップ85万5千トン、砂利や砂53万4千トン、石炭41万5千トン、トウモロコシ40万1千トン、動植物性飼肥料24万7千トン。

 しかし、大街道(国道398号線)と工業港に挟まれた地域の復興はこれからである。そこは川村孫兵衛や細谷十太夫の功績という輝かしい歴史を持つものの、高度経済成長の波に乗って昭和40年代半ば以降から急激に宅地化された区域。大震災では、海辺に近いところは甚大な被害を受け、広大な原っぱになった。

 その地域で、復興のつち音がわずかに聞こえる地域は「下釜第一」で展開している土地区画整理事業。三ツ股2~4丁目、築山1~4丁目の区域で、都市計画道路の工業港曽波神線(普誓寺のある大きな道路)の東側約12ヘクタール。ビル型の復興公営住宅も数棟建設中で、街路の区画が始まっている。計画区域の南側は高盛土の門脇流留線だが、こちらの工事は見えない。

石巻工業港は昭和36年11月に着工。それから6年後の同43年3月、待望の第一船「越後丸」(6250トン)が木材を満載して入港した。港は当時未完成で、砂浜が残る港に大勢の人が押し寄せ、第一船入港を歓迎した。入社3年目の新米記者として、その光景を先輩記者と一緒に見届けた。赤字再建団体という苦しい財政の中で、当時の市長が言った「苦しいときに基礎がつくられる」がいまだに忘れられない。


大震災直後大街道は冠水し、国道に面した店も津波の被害を受けていた。



かけ替えられた大街道新橋。



歩道橋の上から石巻の市街地望む。



歩道橋の上から東松島方面を望む。



ホテルもオープン。



工業港に近い場所は原っぱに。



こちらも広大な原っぱに。



工業港も順調に回復へ。



復興公営住宅も建ち始める。



新しい街の姿が看板に。


2016/07/07

被災地からのミニ報告89 - 石巻市 釜、大街道 | 2016年7月7日

「なぜ、鍋釜の釡なのか」。地名の由来について、石巻市釡小学校50年史(平成8年発行)で、第15代校長の久野徳美さんは「誇り高き我が釡小」と題し、次のように記していた。

「川村孫兵衛は北上川改修という大事業を竣工した功績によって、政宗より3000石を拝領、大鉤村(現在の東松島市大曲と釡の一部)に居を構え、墳墓の地と定めた。同時に開墾事業や村の浜で製塩も行い巨釜を据えたところを釡と呼ぶようになった」

孫兵衛の菩提寺は「普誓寺」で、近くに一族の墓がある。5日に現地に行ったら、暮碑を格納する建屋もかなり出来上がって今月27日の墓地落成には間に合いそうな感じだった。大震災前に墓碑建屋から500m南に行ったところに、「重吉神社」がり、川開き祭りでは関係者がお参りしていた。

しかし、その神社の建物も鳥居もなかった。浜からの津波で流されたという。残っているのは、大きなイチョウの木と神社の由来を刻んだ石碑のみ。ここにも「定川河口付近に塩田を作り、大釡を据えたことに由来する」と刻まれていたた。

孫兵衛は恩賞で得た野谷地を開墾し一族家臣に分け与えたといわれる。俗にいう「上釡」に残る「新館」「中屋敷」「浦屋敷」「明神」は川村家ゆかりの地名である。
由緒ある「釡」の地名は分かったが、いわゆる「下釜」に古墳があるのを知っているだろうか。学習等供用施設の「釡会館」脇に「釡西古墳」があり、それより東に500mぐらい離れたところに「釡東古墳」がある。旧石巻市内で古墳という名が付く遺跡はここだけで貴重だが、かつて行われた調査では「古墳らしい」ということだけで、確かなことは分からなかったと記憶している。

「釡西古墳」のある場所には江戸時代に、釡の郷士である河東田家の菩提寺「瑞松寺」があったといわれ、発掘調査では庭園と池の一部が出てきた。その脇にお地蔵さんが以前と同様に鎮座。その隣に震災記念碑が地元町内会の手で建立された。周囲の共同墓地内には大震災後の翌年、「釡の観音様」が建ち、周辺一帯は下釡の祈りの場所になっている。
河東田家の屋敷は現在の西三軒屋にあったといわれ、「釡東古墳」はそこにある。


「釡小50年史」



大震災前の「重吉神社」



現在の「重吉神社」跡。



孫兵衛の墓碑建屋建設。



釡西古墳。



釡東古墳。



釡観音。


2016/07/06

被災地からのミニ報告88 - 石巻市門脇、大街道 | 2016年7月6日

石巻市釡小学校の校歌は、「釡・大街道」の歴史と風土を伝えている。特に2番は

「今に讃える重吉の/高き功を偲びつつ/明日の文化と産業を/担う我等の意気を見よ」。

重吉とは、藩政時代に伊達政宗の命により北上川を改修し、石巻を東日本最大の交易港にした川村孫兵衛重吉のこと。

孫兵衛は川村家系図によると1575(天正3)年の生まれ。通説では毛利輝元の家臣だったが、関ケ原の戦い(1600年)に敗れた毛利氏は領地が4分の1に減り、浪人となって近江国蒲生郡に住んでいた孫兵衛をその土地を領地にしていた政宗が見い出し、家臣にしたという。

しかし、「石巻まるごと歴史探訪」(石垣宏著、2000年発行)では「県北で見つかった資料には金山奉行川村孫兵衛重吉とあり、年代は慶長2(1597)年であり、政宗に仕えたのは文禄年間の終わりごろ(1595)かとも考えられる」としている。としたら、関ケ原の戦いの前に、孫兵衛は東北の地を踏んでいる。

孫兵衛の菩提寺は、中浦2丁目にある「普誓寺」。工業港の大手ふ頭から北へ一直線に延びる「都市計画道路工業港曽波神線」(幅員29メートル)の道路脇に建つ。東日本大震災では、工業港大手ふ頭を越えた巨大津波がこの道路を水路のようにして北へと遡上し、北上運河に架かる「中浦橋」へと達した。

この津波で普誓寺は大きな被害を受けた。寺に近い新館にある孫兵衛夫妻の墓も甚大な被害を受け、建屋は流された。現在、墓の区域を整地するなど、修復に懸命。特に、今年は孫兵衛が北上川改修の第一歩となる迫川と江合川を合流させる工事に踏み切った1616年から400年の節目。本流を真野川に合流させるために袋谷地(現在の水明町)でS字型に掘削して石巻湾に流した1626年から数えて、390年。川開き祭り前に墓の落成開場を目指している。

普誓寺は孫兵衛の菩提寺。石垣さんの「まるごと歴史探訪」によると「仙台藩2代藩主忠宗が牡鹿半島にシカ狩りの際、孫兵衛宅に寄ったのだが、孫兵衛はこれに感謝して自宅を寺院に改造してその思いに報いようとした。しかし、完成を前にした1648年に74歳で亡くなった」という。

現在の住居表示では「中浦2丁目」だが、そこは「大鉤山」。のちに「釡大曲」「上釡」などと呼ばれた。そこは孫兵衛さんゆかりの地。普誓寺は「大鉤山龍観院普誓寺」が正式名。本堂にある位牌には「普誓寺普徹聖公居士」と「龍観院心源妙徹大姉」(妻)と刻まれ、並んでいた。

そして釡小学校は江戸時代の末期に普誓寺で寺子屋教育が始まり、明治20年に石巻小の分校、同25年に門脇小の分校という歴史を刻んで、いまにつながっている。


川村孫兵衛の菩提寺の普誓寺。



大震災では「津波の通路」脇となって大きな被害を受けたが、襲来時とその直後、一夜明けて。





孫兵衛夫妻の位牌。



新しく整地された場所に孫兵の墓が建つ。



2016/07/04

被災地からのミニ報告87 - 石巻市門脇、大街道 | 2016年7月4日

石巻市内で1,000人近い犠牲者を出した石巻湾背後地の門脇、釡、大街道地区には大津波を食い止める備えがなかった。南浜町と門脇町は日和山で津波は止まったが、かつての「釡の入り江」にできた石巻工業港背後地は、いくつもの工場の壁を突き破った大津波が背後の住宅地を呑み込み、北上運河にまで達して止まった。

ここでの大震災死者は「門脇字」で143人、「大街道」で155人、「築山」110人、「三ツ股」105人、「中屋敷」44人、「新館」58人、「中浦」12人で合計628人。それに、「南浜町」の218人、「門脇町」の134人を加えると、979人にも及ぶ。

「釡・大街道」は明治の初めに、細谷十太夫が職を失った士族の授産事業として開拓されたが、元々は広大な湿地帯にありながら、「石巻街道」の一部だった。南側には「大曲街道」があった。また、「金華山道」は大街道で合流して、住吉の袖の渡しから北上川を渡り、湊、牡鹿半島へ抜ける形で整備され、いわば大街道は交通の要衝であったことでは、開拓前と後でも違いがなかった。

藩政時代の石巻には、8つの街道があった。その一つが「石巻街道」で、仙台街道も称され、石巻と仙台を結ぶ幹線道路で、石巻の大街道から、矢本、小野、高城、利府、原町を経由し仙台へと通じていた。ほかに「一関道」(蛇田新橋から鹿又、天王橋、飯野川へ抜ける道路)「雄勝街道」(稲井真野のルート以外に釜谷ルートも)「大曲街道」(釡地区から定川を渡り大曲へ)「石巻別街道」(現在の国道108号線)「松島街道」(石巻街道を通り高城より松島へ)「石巻北街道」(片上川を船で渡り、湊、渡波を経て、女川へ)「金華山街道」があった。

明治の大掛かりな開拓で、牡鹿原と呼ばれた低湿地帯は平坦で肥沃な地に生まれ変わり、穀物に野菜、果樹の産地になった。市立釡小学校は戦前、門脇小学校の分校だったが、昭和21年に現在地から国道398号線を挟んだ築山地区に開校した。このとき制定の校章は現在も変わらない。「梨を図案化」したもので、もう地域には何本も残っていない「梨」を大切に守り、誇りにしてきた。

今年3月には「梨のふるさと釡」の石碑が校内に残る梨の木の下に建てられた。碑文には「江戸時代末期、下野国塩谷郡荒井村(現栃木県矢板市)出身の井上吉兵衛が、下総国東葛飾郡八幡村(現千葉県市川市)から長十郎を移入、移植したことに始まる」と釡梨の歴史に触れ、細谷十太夫の開墾と共に、砂地に適している梨の栽培に手掛けたということが石碑に刻まれていた。

昭和40年代に入って、石巻工業港の建設と共に地区内の都市化が進み、梨園は園芸作物などに転換、徐々に少なくなった。今では釡小を含めてほんの数本が残るのみとなった。「釡梨」の子孫は利府町の梨となって生き続けている。


工業港の建設が始まる前の「釡の入り江」(釡小開校50年史から)。



約20年前の工業港(釡小開校50年史から)



釡小の校章は「梨をデザイン化」。


校庭の隅に梨の木の下に石碑「なしのふるさと釡」が建つ。



その梨の木には小さな梨のみが実った。



大街道は交通の要衝(明治10年代作成で、ほぼ江戸時代の姿を伝えている。「石巻の歴史」第2巻下の1より)。



大街道の五差路・七十七銀行前にある「金華山道」の道しるべ。