2016/07/04

被災地からのミニ報告87 - 石巻市門脇、大街道 | 2016年7月4日

石巻市内で1,000人近い犠牲者を出した石巻湾背後地の門脇、釡、大街道地区には大津波を食い止める備えがなかった。南浜町と門脇町は日和山で津波は止まったが、かつての「釡の入り江」にできた石巻工業港背後地は、いくつもの工場の壁を突き破った大津波が背後の住宅地を呑み込み、北上運河にまで達して止まった。

ここでの大震災死者は「門脇字」で143人、「大街道」で155人、「築山」110人、「三ツ股」105人、「中屋敷」44人、「新館」58人、「中浦」12人で合計628人。それに、「南浜町」の218人、「門脇町」の134人を加えると、979人にも及ぶ。

「釡・大街道」は明治の初めに、細谷十太夫が職を失った士族の授産事業として開拓されたが、元々は広大な湿地帯にありながら、「石巻街道」の一部だった。南側には「大曲街道」があった。また、「金華山道」は大街道で合流して、住吉の袖の渡しから北上川を渡り、湊、牡鹿半島へ抜ける形で整備され、いわば大街道は交通の要衝であったことでは、開拓前と後でも違いがなかった。

藩政時代の石巻には、8つの街道があった。その一つが「石巻街道」で、仙台街道も称され、石巻と仙台を結ぶ幹線道路で、石巻の大街道から、矢本、小野、高城、利府、原町を経由し仙台へと通じていた。ほかに「一関道」(蛇田新橋から鹿又、天王橋、飯野川へ抜ける道路)「雄勝街道」(稲井真野のルート以外に釜谷ルートも)「大曲街道」(釡地区から定川を渡り大曲へ)「石巻別街道」(現在の国道108号線)「松島街道」(石巻街道を通り高城より松島へ)「石巻北街道」(片上川を船で渡り、湊、渡波を経て、女川へ)「金華山街道」があった。

明治の大掛かりな開拓で、牡鹿原と呼ばれた低湿地帯は平坦で肥沃な地に生まれ変わり、穀物に野菜、果樹の産地になった。市立釡小学校は戦前、門脇小学校の分校だったが、昭和21年に現在地から国道398号線を挟んだ築山地区に開校した。このとき制定の校章は現在も変わらない。「梨を図案化」したもので、もう地域には何本も残っていない「梨」を大切に守り、誇りにしてきた。

今年3月には「梨のふるさと釡」の石碑が校内に残る梨の木の下に建てられた。碑文には「江戸時代末期、下野国塩谷郡荒井村(現栃木県矢板市)出身の井上吉兵衛が、下総国東葛飾郡八幡村(現千葉県市川市)から長十郎を移入、移植したことに始まる」と釡梨の歴史に触れ、細谷十太夫の開墾と共に、砂地に適している梨の栽培に手掛けたということが石碑に刻まれていた。

昭和40年代に入って、石巻工業港の建設と共に地区内の都市化が進み、梨園は園芸作物などに転換、徐々に少なくなった。今では釡小を含めてほんの数本が残るのみとなった。「釡梨」の子孫は利府町の梨となって生き続けている。


工業港の建設が始まる前の「釡の入り江」(釡小開校50年史から)。



約20年前の工業港(釡小開校50年史から)



釡小の校章は「梨をデザイン化」。


校庭の隅に梨の木の下に石碑「なしのふるさと釡」が建つ。



その梨の木には小さな梨のみが実った。



大街道は交通の要衝(明治10年代作成で、ほぼ江戸時代の姿を伝えている。「石巻の歴史」第2巻下の1より)。



大街道の五差路・七十七銀行前にある「金華山道」の道しるべ。


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