2016/07/06

被災地からのミニ報告88 - 石巻市門脇、大街道 | 2016年7月6日

石巻市釡小学校の校歌は、「釡・大街道」の歴史と風土を伝えている。特に2番は

「今に讃える重吉の/高き功を偲びつつ/明日の文化と産業を/担う我等の意気を見よ」。

重吉とは、藩政時代に伊達政宗の命により北上川を改修し、石巻を東日本最大の交易港にした川村孫兵衛重吉のこと。

孫兵衛は川村家系図によると1575(天正3)年の生まれ。通説では毛利輝元の家臣だったが、関ケ原の戦い(1600年)に敗れた毛利氏は領地が4分の1に減り、浪人となって近江国蒲生郡に住んでいた孫兵衛をその土地を領地にしていた政宗が見い出し、家臣にしたという。

しかし、「石巻まるごと歴史探訪」(石垣宏著、2000年発行)では「県北で見つかった資料には金山奉行川村孫兵衛重吉とあり、年代は慶長2(1597)年であり、政宗に仕えたのは文禄年間の終わりごろ(1595)かとも考えられる」としている。としたら、関ケ原の戦いの前に、孫兵衛は東北の地を踏んでいる。

孫兵衛の菩提寺は、中浦2丁目にある「普誓寺」。工業港の大手ふ頭から北へ一直線に延びる「都市計画道路工業港曽波神線」(幅員29メートル)の道路脇に建つ。東日本大震災では、工業港大手ふ頭を越えた巨大津波がこの道路を水路のようにして北へと遡上し、北上運河に架かる「中浦橋」へと達した。

この津波で普誓寺は大きな被害を受けた。寺に近い新館にある孫兵衛夫妻の墓も甚大な被害を受け、建屋は流された。現在、墓の区域を整地するなど、修復に懸命。特に、今年は孫兵衛が北上川改修の第一歩となる迫川と江合川を合流させる工事に踏み切った1616年から400年の節目。本流を真野川に合流させるために袋谷地(現在の水明町)でS字型に掘削して石巻湾に流した1626年から数えて、390年。川開き祭り前に墓の落成開場を目指している。

普誓寺は孫兵衛の菩提寺。石垣さんの「まるごと歴史探訪」によると「仙台藩2代藩主忠宗が牡鹿半島にシカ狩りの際、孫兵衛宅に寄ったのだが、孫兵衛はこれに感謝して自宅を寺院に改造してその思いに報いようとした。しかし、完成を前にした1648年に74歳で亡くなった」という。

現在の住居表示では「中浦2丁目」だが、そこは「大鉤山」。のちに「釡大曲」「上釡」などと呼ばれた。そこは孫兵衛さんゆかりの地。普誓寺は「大鉤山龍観院普誓寺」が正式名。本堂にある位牌には「普誓寺普徹聖公居士」と「龍観院心源妙徹大姉」(妻)と刻まれ、並んでいた。

そして釡小学校は江戸時代の末期に普誓寺で寺子屋教育が始まり、明治20年に石巻小の分校、同25年に門脇小の分校という歴史を刻んで、いまにつながっている。


川村孫兵衛の菩提寺の普誓寺。



大震災では「津波の通路」脇となって大きな被害を受けたが、襲来時とその直後、一夜明けて。





孫兵衛夫妻の位牌。



新しく整地された場所に孫兵の墓が建つ。



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