2016/07/07

被災地からのミニ報告89 - 石巻市 釜、大街道 | 2016年7月7日

「なぜ、鍋釜の釡なのか」。地名の由来について、石巻市釡小学校50年史(平成8年発行)で、第15代校長の久野徳美さんは「誇り高き我が釡小」と題し、次のように記していた。

「川村孫兵衛は北上川改修という大事業を竣工した功績によって、政宗より3000石を拝領、大鉤村(現在の東松島市大曲と釡の一部)に居を構え、墳墓の地と定めた。同時に開墾事業や村の浜で製塩も行い巨釜を据えたところを釡と呼ぶようになった」

孫兵衛の菩提寺は「普誓寺」で、近くに一族の墓がある。5日に現地に行ったら、暮碑を格納する建屋もかなり出来上がって今月27日の墓地落成には間に合いそうな感じだった。大震災前に墓碑建屋から500m南に行ったところに、「重吉神社」がり、川開き祭りでは関係者がお参りしていた。

しかし、その神社の建物も鳥居もなかった。浜からの津波で流されたという。残っているのは、大きなイチョウの木と神社の由来を刻んだ石碑のみ。ここにも「定川河口付近に塩田を作り、大釡を据えたことに由来する」と刻まれていたた。

孫兵衛は恩賞で得た野谷地を開墾し一族家臣に分け与えたといわれる。俗にいう「上釡」に残る「新館」「中屋敷」「浦屋敷」「明神」は川村家ゆかりの地名である。
由緒ある「釡」の地名は分かったが、いわゆる「下釜」に古墳があるのを知っているだろうか。学習等供用施設の「釡会館」脇に「釡西古墳」があり、それより東に500mぐらい離れたところに「釡東古墳」がある。旧石巻市内で古墳という名が付く遺跡はここだけで貴重だが、かつて行われた調査では「古墳らしい」ということだけで、確かなことは分からなかったと記憶している。

「釡西古墳」のある場所には江戸時代に、釡の郷士である河東田家の菩提寺「瑞松寺」があったといわれ、発掘調査では庭園と池の一部が出てきた。その脇にお地蔵さんが以前と同様に鎮座。その隣に震災記念碑が地元町内会の手で建立された。周囲の共同墓地内には大震災後の翌年、「釡の観音様」が建ち、周辺一帯は下釡の祈りの場所になっている。
河東田家の屋敷は現在の西三軒屋にあったといわれ、「釡東古墳」はそこにある。


「釡小50年史」



大震災前の「重吉神社」



現在の「重吉神社」跡。



孫兵衛の墓碑建屋建設。



釡西古墳。



釡東古墳。



釡観音。


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